第17話
「はあ。やっぱり駄目か」
日曜。朝の忙しい時間を終えて1人リビングで雑誌を見ていた百香里。
気になるページを恐る恐るあけて何やらじっくりと指で追って探してがっかりした顔。
10時には前々からお願いしていた梨香に新しい服なんかを見に連れて行ってもらう予定。
「どうかしましたか義姉さん」
「真守さん。その、お恥かしい話なんですが。その、…自転車、当たらないかなって」
「懸賞ですか」
まさか後ろに真守がいるとは思わなくて、声をかけられて慌てて雑誌を隠し顔を赤らめる。
「内緒ですよっ絶対内緒っ」
「はい。誰にも言いませんから」
百香里の密かな楽しみが懸賞に応募する事だというのは真守だけが知っている。
何も恥じることは無いと思うしそう義姉にも言っているのに。やはり気になるのか。
頑なに他の人には言わないでくださいと言われてしまった。
「総司さんに自転車買ってくださいって言おうと思ったんですけど、何だか言い出しにくくて」
「必要だから欲しいんですよね。ならば言うべきです、無理をするのは良くないでしょうし」
「そうなんです。自転車があればもう少し早くスーパーに行けるんです。荷物も置けるし。
安売りの日とかタイムバーゲンとかも余裕で…あ。いえ、その、すいません」
雑誌を片付けてお茶をいれる。真守にも勧めて一緒に一息入れる事に。
運よく自転車が当たれば総司に買ってもらわなくても済むと思ったのだがやはり甘かった。
誰かに物を貰ったり買ってもらったりするのに慣れていなくて、どう甘えて良いかまだよく分からず。
総司を前にしていざねだろうと思っても言葉がでない。嫌がられたりしないかと気になるし。
「何なら僕からそれとなく兄さんに言いましょうか」
「ありがとうございます、でも、自分で言いますから」
「わかりました。もうすぐ10時ですね、……本当に出かけるんですか?」
「はい」
真守が時計を見て尋ねる。百香里の突然の申し出に驚いたのは総司だけではない。
皆百香里にも考えがあるのだろうと理解はしてくれるが、かといって喜んでいるようにも見えない。
総司は一緒に行きたいと言って断わられて拗ねて寝ているし、渉は興味ないとかいってパチンコ。
真守も正直な所百香里の変身には否定的な雰囲気。とくに梨香に学ぶという所が。
「何というか、悪く言うつもりはないんですが。……本当に彼女でいいんですか?」
「はい。梨香さんみたいに私も綺麗になりたいんです、デートする時とか」
「十分綺麗ですよ。僕の出る幕ではないというのも分かってるんですが、しかし」
真守もどういえば良いか分からず言葉に詰まる。梨香とは何度か会った事があるくらい。
話も殆どしないからどういう女性なのかは分かりづらい。だから問題なのは服装。
美人でスタイルがいい彼女はとにかく派手で露出が高くどう考えても今までの百香里とは合わない。
百香里は派手な服も着こなす彼女に憧れているようだが、周りはどうなるのかとヒヤヒヤものだ。
「大丈夫ですよ。今回は教えてもらうだけなので買いませんから」
そんな心配も気付かないで何時もの笑顔でかえす百香里。
「あの、もし、宜しければもう1人相談役を置いてはいかがでしょう」
「もう1人ですか?でも」
「10分もすれば此方に来ます、それまで兄さんを見てきてください」
「わかりました」
もう1人の相談役というのが気になるけれど、真守の言葉で思い出した。総司はベッドに入ったまま出てこない。
2階へ上がって自分たちの寝室へ。一応ノックをしたけど返事は無い。まだ拗ねているのか。
部屋に入ると薄暗い部屋。ベッドにはやっぱり布団に入ったまま出てこない総司。
「……」
「総司さん。もう9時過ぎましたよ。朝ごはんも食べてくださらないと」
「……」
ベッドに座ってぽんぽんと総司を軽く叩いてみるが返事は無い。
「もう。総司さん。起きてくれないと……こうですよ!」
布団越しに総司の上に乗って体重をかける。重いだろうからこれで顔を出すなり声を出すなりするはず。
ちょっと子どもっぽいかな、と思ったけれど夫婦なんだしこれくらいしてもいいだろう。
すぐには反応はないがずっと乗っていたら苦しくなって顔を出すとじっとそのままの体勢で待つ。
「……」
「きゃ」
やっと顔を出したかと思ったら布団の中に引き寄せられて。
「ユカリちゃん」
「はい」
「そんな可愛い事したらあかん、めっさムラムラする」
何処へも逃さないと言わんばかりに百香里を下に組み敷いて唇を合わせる。
時間はあまりないけれど、無理に抵抗する事無く総司を抱きしめて寝癖の凄い頭を撫でた。
総司の手は百香里のスカートの間に手を入れ太ももを撫でる。
「もう10時になっちゃうのでムラムラは夜にできません?」
「できん」
今からえっちをしていたら確実に遅刻する。10時にマンションに来る事になっているのに。
それを分かっていて百香里を離さないのか。何時に無く甘えん坊な旦那さま。
それでも百香里は怒らず騒がず成すがままに、言葉で説得しようと優しく起きましょうと促す。
「今夜は食事に連れてってくれるんですよね」
「今はユカリちゃんが欲しい」
「私も貴方が欲しい。でもせっかく作った朝食を食べてくれないなんて悲しいです」
「わかった。食べる」
「はい」
「……のまえにユカリちゃんのアソコを」
「えっ」
やっと起きてくれる、と安心したら不穏な言葉と共にいきなり布団の中に入ってしまって。
何をするのかと思えば百香里の股を開きパンツを膝のあたりまで下ろし顔を埋めた。
スカートはいつの間にかお腹の所まで上げられ締められないように足も掴まれた。手際は何時も通り良い。
「……買い物してもええけど……あんまり派手なんはあかんよ」
「あ…んぁ……」
「……ユカリちゃんは……人妻なんやから……」
「あんっ……指だ…めぇ…っ」
布団の中から何やら総司の声がする。ソコを舐めながらだから余計聞き取れないし快楽で返事も出来ず。
でも何となく言っている事はわかった。それで朝から拗ねてベッドからでてくれなかったのだし。
百香里が果てるまで、果てても何度か布団の中で舌と指の愛撫は続いた。
「変わってるわよね、貴方って」
「そうですか?」
「そうよ。ぜんっぜんタイプ違うじゃない私と貴方」
「そう、ですけど」
やっとの事で起きてくれた総司が朝食を食べはじめてすぐ梨香がマンションに来た。
まさか百香里が自分を呼ぶとは思わなくて、渉から話を聞いた時はそれはもう驚いた。
今でも彼女への嫉妬はあるし、今までに酷いことも言ったしあんまりいい関係ではないと思っていたのに。
「いいじゃないですか、色んなことに興味を持つのはいい事ですし」
「そう?というか、貴方も大変ね。休日なのに呼び出されて奥様の買い物に付き合って」
「すみません千陽さん」
「いいんですよ。特に予定なかったんで」
車を運転するのは真守に呼ばれた千陽。まさか彼女がもう1人の相談役だなんて思わなかった。
千陽と梨香も面識は殆ど無い。探りあいの空気の中、女3人で街へ繰り出すことになった。
1番年下の百香里はちょっと緊張気味。とりあえず昼までの2時間だけという約束。
「彼氏居ないんだ」
「どういう意味かしら」
「だって休日に予定無しなんでしょ?」
馬鹿にしたような笑みを向ける梨香。ムカっとして表情を変える千陽だが。ここは押さえて。
真守に呼ばれたのがデートでなくてお付なのが悲しいが、それだけ自分を信頼してくれているという事だし。
何がなんでも百香里の服選びを全うさせるのが秘書としての仕事。
「決め付けないでくれるかしら」
「じゃ居るんだ」
「……そ、そりゃ居るわよ」
年下の女に見栄をはるなんて、でもここはもう引けない。
「え。千陽さん彼氏居るんですか」
「え。あ。あー。まあ、その、ははは」
熱くなって百香里が居るのをすっかり忘れていた。もしかしたら真守にも聞かれてしまうだろうか。
微妙な空気をかもしながら梨香がよく買い物をするという店へ。
見るからに高級そうなブティックでしり込みしてしまいそうだが、1人ではいるわけじゃない。
深呼吸をして一歩踏み出す。何より今日は見に来ただけ、どんなのが良いのか見るだけ。
「これなんかどう?」
「短いですね…」
「そう?じゃあこっちとか」
「あ。これは色が綺麗」
「試着してみる?」
「はい」
一応総司から貰っているカードがあるが使う気はない。気を楽にして試着室へ。
値札を見て倒れそうになったが外で待っている2人の事を考えて着替えをすすめた。
カーテンを開けると千陽は待っていてくれたのだが梨香は自分の服を見ていた。
「いいじゃない。似合ってる」
「貴方ならいいかもしれないけど相手は社長夫人ですから。もっと知的な服を選んでくださらないと困りますわ」
「それってまるで私がオツム軽いみたいな言い方に聞こえるんですけど、オバサン」
「おば。……、…百香里さん、こっちの落ち着いた服の方が宜しいんじゃないでしょうか」
「酷いセンス」
試着室の前で何やら火花がチカチカと。置いてけぼりの百香里。とりあえず自分の服に着替える。
「あの、今日総司さんと夕食を食べに出かけるんですけどそれに」
「任せといて。あのおじさんが喜ぶような服選んであげるから」
「おじさん……」
これ以上険悪な空気にならないように話題を逸らそうとしたのだが。
隣の千陽の表情がピクリと反応して怖い顔に。何だかまた変な方向に行きそうな気がして来た。
そして何気に夫をおじさんと言われて落ち込んでいる自分が居る。総司には絶対言えない。
「社長がその気になれば貴方の勤めているような中小企業あっという間に消えるわよ」
「そしたら永久就職するから問題なしね」
「あぁらそうでしたの。ですが聞いた話ですと渉さんにはその気がまだ無いそうで」
「人のプライバシー侵害するのやめてくれる」
「ごめんなさいね、秘書なものですから。この事は他には口外しませんからご安心を」
落ち込む百香里に火花を散らす梨香と千陽。店員はどうして良いか分からずとりあえず距離を置く。
結局何の指導も受けられないままに店を出る。次の店へ案内するという梨香だが。
その顔は苛々というかムカムカというか。とにかく不機嫌極まりなく服の話しなんて出来やしない。
千陽も平静を装ってはいるがこめかみに青筋が。
「……あの」
「なに」
「何でしょうか」
「せっかくこうして3人で街に来たんですし、仲良く行きましょう?」
「私は別に好きで来たんじゃないし、まさかこんなオバサンが居るなんて思わなかったし」
「でしたら何時でもお帰り願って構いませんよ。渉さんに好きなだけ文句を言ったらいかがです?」
「……嫌味ったらしぃいい」
どれだけ文句を言ったって渉が聞いてくれるわけが無い。百香里が絡むとどう足掻いても自分の負けだから。
それを分かってて敢えて言ってくる千陽が腹立たしい。睨みつけるが相手は涼しい顔。さすが年の功か。
百香里はハラハラしながらこのままじゃ何時かつかみ合いの喧嘩をするんじゃないかと心配で仕方ない。
助けを呼ぼうにも兄弟の誰を呼んでもどっちかが傷つくというか。総司は呼べないし。
「こんな素敵な服着こなせる人って居るんですね。いいな」
「貴方も着たらいいじゃない。好きなだけ買えるんでしょ?社長夫人なんだし」
どうしようもない空気の中2件の店に入る。ここは先ほどの高そうな店よりはフランクで入りやすい。
ショウウィンドウにかざってあるワンピースが可愛くてつい見蕩れてしまう。
少し前だったら見つめてため息してさっさと通り過ぎてしまう所だけど。
「私のお金じゃありませんから。それに、勿体無くてきっと結婚式とか御呼ばれする時くらいしか」
「お呼ばれ?あははははっ。何それ、普通のワンピースじゃんこれ」
「……すいません」
「あ。ごめん。じゃあさ、これ買おうよ。似合うよ」
「いえ、今日は」
「夜デートするんでしょ。可愛く決めていきなよ。喜ぶと思う」
「まず試着してみますね」
百香里たちが街を歩いている頃。残された総司はリビングに寝転んで只管テレビ三昧。
今頃何をしているのか気になって仕方ないが電話はかかってこないしメールもこない。
此方からしたってすぐに切られるだろうし、もどかしい。凄くもどかしい。
「だらしない、せめて着替えたらどうですか」
「だってユカリちゃん居らんのやもん」
「義姉さんが居なくても着替えは出来るでしょう」
それを見て部屋から出てきた真守も呆れた顔。心配な気持ちは理解できるけれど。
やはり目の前で盛大にだらけられるとあまりいい気持ちはしない。
「ユカリちゃんは何でいきなりあんな事言うたんかなあ。今でも十分可愛いやん」
「何か心当たりはないんですか」
「悩みとかはあったけど、その度に話し合って落ち着いてきた所やったんやで?」
「では義姉さん自身の問題では」
今の自分からがらっと全く違うものに変わりたいと思う気持ちも何処か分かる気がする。
すべてを分かってあげることは出来ないけれど、手放しで応援も出来ないけれど。
総司はゴロゴロとソファを寝転がりチャンネルを何度もかえてつまらない様子でテレビを消した。
「ユカリちゃんに何があっても俺が支える。旦那やもんな、……それで、えんやよな」
「生憎僕は独身なのでそれに同意するのは憚られますけど、でも、それでいいんじゃないですか」
「そや。お前千陽ちゃん呼んだんやろ?買い物はあの姉ちゃんに任せてデートしたらよかったやんか」
「いえ。それよりも義姉さんが大事ですから、その、毒されて帰って来られると少々困るので」
「あー。わかる。あんな短いスカートとかはかれたらもう……ビンビンやわ」
返事はしないが真守も恐らくそういう意味合いなのだろう。今は地味で控えめな服装で化粧も薄い百香里。
だけど20歳の若い娘が短いスカートや露出の高い服で歩き回られると目のやり場に困る。
渉あたりは慣れていそうだが総司は所構わず性欲を我慢できなくなるだろうし。
真面目な真守にいたっては百香里と視線を合わせられなくなるだろう。松前家が混乱するのは必至。
「しけたツラしてんな、相変わらず」
「何や渉早いなぁ。大負けか」
「そんなとこ。つか、ユカりんはどう?上手くやってんの?」
「連絡は無いが、まあ、それだけ上手くやっているんだろう」
「どうなって帰って来るかな、楽しみだ」
パチンコから帰ってきた渉は不敵な笑みを浮かべ部屋に戻って行った。
本当にどんな姿になって帰ってくるのだろう。買い物はしないで見るだけだと言っていたけど。
場の雰囲気に押されて1枚くらい、いや案外大量に買ってきたりするかもしれない。
可愛くなるのは嬉しいし楽しみだけど、不安もあったりして。とにかく複雑な気持ち。
「ただいま戻りました」
「ユカリちゃん!」
「総司さんまだパジャマだったんですか?ヒゲ伸びてますよ。顔も洗ってないんですね」
「……だって心配やったんやもん」
12時を少し過ぎた辺りで百香里が帰ってきた。他の2人は上がらずに帰ったという事で彼女だけ。
いきなり抱きついたものだから両手に持っていた荷物を床に落とす。
見たところ朝と同じ服装。いきなり変わってるんじゃないかと思ったが、ちょっと安心。
「今夜は出かけるんですよね。そんな顔の総司さんと出かけるなんていやです」
「すぐ顔洗うから、堪忍」
聞きたいことは山ほどあるが、とりあえず顔を洗って服も着替えて再びリビングへ。
買ってきた袋の半分は日用品で埋っていて、もう片方は服のようだった。
昼食の準備を始めた百香里は忙しそう。何時もより時間が押しているから余計に。
「あ。結局服買っちゃいました」
「かまへん。けど、どんなん?可愛い?短いスカート?おっぱい見えそうな服?」
「そんな服着れません。その、可愛いとは言ってもらいましたけど」
「どんなん?気になる」
邪魔しないようにキッチンに顔を覗かせるくらいの距離で百香里を見つめる。
地味でも何時ものエプロン姿が1番可愛い。ムラムラっとするくらい愛しい。
やはり服は買っていた。それも自分たちのものではなくて百香里自身の服。初めてかもしれない。
彼女が自分のものを買うなんて。何度言っても遠慮してしまう彼女だから嬉しいことだけど。
問題はその服がどんなデザインであるか、だ。袋を開けてくれる気配はまだない。
「夜のお楽しみです。今は内緒」
「えーーーーー。そうなん?もう。ユカリちゃんめ」
「お皿出してください。四つ」
「はーい」
勝手にあけるわけにもいかないし、何となく彼女も嬉しそうな表情をしているからいいかなと思えて。
そのまま昼食をみんなで食べて昼からは百香里と2人仲良く何時もの日曜日を過ごす。
渉は梨香と出かけて真守は部屋。
「ユカリちゃん。なあ、悩みとかあったら俺に言いや。何でもやで」
「はい」
「あと。可愛い服は俺とデートのときだけやで」
「はい」
「ユカリちゃんは俺の奥様やもん」
静かなリビング。ソファに座る百香里に膝枕をお願いして、ついでに耳かきもお願いして。
もうこのまま眠ってしまいそう。えっちは夜にとっておきましょうと言われているから出来ないし。
それでも目の前にある胸に目がいく為何度か触ったりして。
「あの、……総司さん」
「ん?何?」
「お願いがあるんです、けど」
「何でも言いや」
心地良さそうな総司を見ながら、今しかないと心を決めた。
「あの、私、その、自転車……が……欲しいです」
「どんなんがええの。普通の?それとも」
「1番安いのでいいんです、走れればいいんです。何なら中古でも」
「ユカリちゃんに似合う可愛い自転車がええな。明日にも用意するわ」
「……ごめんなさい、私の我侭で」
普通なら喜ぶ所なのに百香里は今にも泣きそうな顔。総司はそっと手を伸ばしその頬を撫でる。
「そんな顔せんといて。ユカリちゃんは何も悪いことない」
「本当に安いのでいいんです。乗れたらいいんです」
「分かったから。な。もうそんな顔せんといて。なあ、百香里。もう我慢せんでええんやで」
「我慢なんて」
「もう百香里に苦労はさせへん。俺は社長としてまだまだアカン事いっぱいあるけど。
もう自分1人で勝手気ままに生きてるんと違うんやし、精進する。もっともっと」
頬をなでる総司の手に触れて軽くキスする。大きくて暖かい大好きだけとちょっとえっちな手。
昔の自分にとらわれて意固地になっていたのかもしれない。もっと総司に甘えていいんだ。
松前家の人たちを家族だと思っていたのに、金銭面では何処かで線を引いていたのかも。
「それはいい事ですけど。私の事も忘れないでくださいね」
「当たり前やん。ユカリちゃんが居るから精進するんやろー居らんかったら誰がやるもんか」
「それは聞き捨てなりませんね、社長」
いい雰囲気の所で後ろから声。2人ビックリして振り返ると真守。
「うわっ!何やお前夫婦の営みを立ち聞きか!」
「コーヒーを飲みに来ただけです」
「今準備しますね。美味しいお菓子も買ってきたんですよ」
「あ。ユカリちゃんっ!」
せっかく盛り上がってきたのに。百香里はさっさとソファから立ち上がってコーヒーの準備。
真守は席について大人しく待っている。邪魔されて不機嫌だった総司だが。
一緒に飲みましょうねと百香里に言われると不機嫌な顔が嘘の様に笑顔になり席につく。
「このマドレーヌ美味しいですね」
「千陽さんが教えてくれたんです。ちょっと遠いけど、美味しいですよね」
「ユカリちゃんが作るケーキのが美味いで」
「ありがとう総司さん。今度作りますね」
「うん」
笑顔で会話するが、やはり言わないほうがいいだろう。最後の最後まで梨香と千陽の折り合いが悪かったこと。
殴り合いにまではならなかったものの、言葉の攻防戦が延々と続いて。
百香里はどちらの味方になることも出来ず止めても無駄で。ただ苦笑いをするしかなかった。
そして、梨香との攻防戦の中で知った意外な事実。ずっと真守の事を想っているのだとばかり思っていた。
「あの、千陽さん、もしかしたら恋人がいるかもしれません」
「え!?そうなん!?うっそーー!」
「そう、なんですか」
言葉を濁してはいたが否定はしなかった。だとしたらやっぱり恋人が居るという事か。
言うか言うまいか迷ったがこのまま真守とくっつけようとした時に傷ついてはいけないと思って。
総司は大げさに驚き、真守は特に変化はないがその口調はやはり多少動揺している。
「真守!お前がのんびりしてるから!千陽ちゃん取りかえしてこい!」
「そもそも僕は別に」
「アホか!そんなん言うてたらお前」
「そうですよ。真守さん、千陽さんを取り戻さなきゃ!」
捲くし立てる総司だが真守は今ひとつピンときていないようで曖昧な返事。
百香里もこのままじゃ駄目だと一緒になって説得する。
千陽は真守ときっといい関係を築ける。ゴールインもありえる。百香里も総司もそう核心していたから。なお更。
間に合うかどうかは分からないけれど何もやらないで終わらせてしまうのは勿体無い。
「義姉さんまで。ですから、僕と彼女はそこまでの深い交際はしてないんです。彼女に恋人が居たのは驚いたけど、
それはそれで当然なのかもしれない。そもそも兄さんが勝手に」
「真守。ええか、大事なもんは失ってから気付くんやで。まだ間に合う、電話してデートしてこい」
「真守さん。はい電話」
兄夫婦の息のあった押しに渋々子機を受け取る。
「でも」
「でもは無い!社長命令や!電話してデート!」
「頑張ってください!」
2人何時もは見せないような真面目な顔で有無を言わせぬ押しの強さ。見つめられながらの電話は恥かしいので
席を離れて千陽の携帯に電話をする。今日のお礼も言いたかったし。何度目かのコールで彼女が出てくれて、
まずはお礼を言って。恋人が居るのだからと気を使いデートとは言わずお礼と称して夕食に誘ってみた。
「了承を得たのはいいですが、いきなりなので何処も予約してないんです。店もあまり知らないし」
「だったら私たちの代わりにお店行ってきてください」
「え!?ユカリちゃん!?それはアカンのでは…」
「私は総司さんとここで食事をします。渉さんも今日は梨香さんの部屋に泊まるそうですし」
「ですが」
「総司さんと2人きりになりたいんです、誰も居ない静かな所で。ね。総司さん」
「うん。なりたい」
「……、…分かりました。ありがたく頂戴します」
せっかく百香里といい雰囲気になろうと予約した高級な店だったのに。すんなりとそれを真守に譲る。
最初は不満そうな顔をしたが百香里の言葉にもう未練はなさそうで、寧ろ嬉しそうな顔。
話がひと段落ついた所で真守は急に決まった外食に合わせる服を選ぶため部屋に戻った。
「ごめんなさい総司さん。でも」
「ええんや。店はまた行こな。で、今夜は2人きりで楽しも」
「はい。今日買った服も着ちゃいます」
「うん。俺だけに見せて」
真守を見送って2人きりになった部屋。すぐにでもベッドへ連れて行きたい所だが雰囲気が大事。
夕飯を作る百香里を眺めながらあせってはいけないと自分を落ち着かせる。
が、気持ちは食事よりもその先にある時間。酒を出されてもその事が過ぎって手をつけない。
「お酒これじゃありませんでした?」
「え?いや。うん、これでええよ」
「……じゃあ」
「飲む飲む!」
何も手を付けてくれない総司。もしかして勝手に店を真守に譲ったのを怒っているのだろうかと不安そうな顔の百香里。
総司は慌ててグラスを持ってワインを注いだ。
「待ってください。乾杯……してくれないんですか?」
「え?あ。うん、するする」
また慌ててグラスをテーブルに戻す。百香里は料理を終えて着替えて来ますといってリビングを出た。
どんな格好で来るのか楽しみでならない。昼間はあんなに不安だったのに。派手ではない、とのことだし。
自分だけに見せてくれるからか気分は幾分か明るくテンションも高い。
つづく
2009/02/21