無駄なこと?


「……これ意味あるのかな」

百円均一で買って来たノートにびっしりと書き込まれた松前家の収支。いわゆる家計簿というもの。
今日もこうやって細かく分別して記しているのだが。これを見て何度ため息をしただろう。
母子家庭で育った百香里。中学の頃から兄と2人でバイトして日夜働きづめの母を支えてきた。
親の大変さを知っているから流行の玩具を買ってもらえなくても何処にも連れて行ってもらえなくても平気。
苛めを受けたって泣かないで怯まずに何処が悪いと反論した。
そんな生活を続けた自分が直面している問題は人からすれば贅沢といわれるかもしれない。

「ユカリちゃん。何してるん?」
「総司さんっ。え。と。あの、な、なんでもないですっ」
「そのノートなに?俺に言えへん代物なん?」
「あの、その」

さっきまで風呂に入ったと思っていた総司がひょっこり顔を出す。どうやら思いのほか長時間悩んで居たようだ。
慌てて隠すけれどそれがまた余計怪しまれてしまって。そんな怪しまれるようなものではないのに。
でも、総司にはあまり知られたくなかった。他の弟たちにもそうだけど。

「あれかな。若い子にはやっとるような奴なんかな。それやったら俺が聞いてもわからんよね…はは…」

何時に無く挙動不審な百香里に総司も気を使っているのか苦笑い。

「……家計簿です」
「え?」
「ここに来てからずっと付けてました。……すいません」
「な、なんで謝るん?」
「……」

夫に隠し事はしたくない。だからノートを差し出した。節約とかスーパーの安売りとかバーゲンとか。
そんなものに必死になる事を恥かしいなんて思った事などなかった。
だけど総司たちのように常にお金に困らずに生きてきた人たちにしてみれば自分のしていることなんて。
初めの頃はその違いに戸惑った。それでも自分は自分だからと言い聞かせてきたけれど。
でも、こうやって総司に家計簿をコツコツつけている所を見られると堪らなく恥かしい。

「懐かしいな。俺も昔はつけてたし」
「え」
「言うてもユカリちゃんみたいにキッチリ毎日ちゃんとこまめにはしてへんけどな」
「……」

綺麗な字でびっしりと書き込まれたノート。百香里が家計簿をつけているなんて初めて知った。
ノートを返し視線を向けると彼女は恥かしそうに俯いて黙っている。
生活の違いについて何も気にしてない風に見えたが、やはり百香里も気にしていたのか。

「謝る事ないやん。それよりユカリちゃん子作りしよー。僕な、今日はめっちゃ」
「ええ子が生まれる気がするんですか」
「する。今日はめっちゃする」
「……私もそんな気がします」
「百香里。はよこっちおいで」

ベッドの上で此方を手招きする夫に笑いながら、ノートを机に仕舞って彼の元へ。

「あの、総司さん」
「なに?」
「子どもができたら、玩具とか買ってあげてくださいね。そんなにたくさんはいりませんから」
「えー。そんなん無理やで。めっさ甘やかしまくりや」
「駄目です」
「百香里も一緒に甘やかしたらええやろ」

百香里を下に寝かせてパジャマのボタンを外していく。
総司は既に上着を脱いでいて準備万端。彼女のパジャマを全部脱がせるとベッドの下において。
露になった若く柔らかな肌に唇を這わせる。風呂上りで仄かにボディソープのいい香り。

「私は十分甘えさせてもらってます」
「あかん。足りへん」

オデコをつき合わせてちょっと強めに言う。まだまだ足りない。百香里にはもっともっと気兼ねなく甘えてほしい。
何時も先に総司の方が彼女にどっぷりと甘えてしまうけど。
軽くキスをしてから舌先で胸の頂を愛撫し、あいているほうの頂は指先で優しく撫でて刺激する。

「あっ……ん」
「よっしゃ。今夜はユカリちゃんがいやや〜って言うまでがんばるでー!」
「あの……明日早いんで…今日は1回だけで」
「いやや!」

百香里の言葉で火がついたのか、その日も夜ぎりぎりまで愛されて、愛した。
総司はまだまだ足りないというけれどやっぱり甘やかされていると思う。ほしいものは直ぐに手に入るし、
テレビで少しでも興味を示したら翌日にはさりげなくそれがあったりして。
質素倹約を心がけているのに3兄弟を前にすると自分もお洒落したいなとかあれが欲しいな、なんて思う。
こんな気持ちは初めてかもしれない。何時かはこの悩みが気にならなくなるのだろうか。


「……はぁ」

翌朝。何時ものように朝食を作りながらまたため息がでる。一日の始まりだというのに。
このままじゃいけない、真守が起きて来るまでにはと思っていたのだが。
どうにも気分がよくならなくて。

「義姉さん、どうかしましたか」
「あ。いえ。おはようございます」
「おはようございます」

悩んだ顔のままで今日もキッチリ着替えた状態でリビングに来た真守を迎える。
彼は直ぐに異変に気付いた。何時もは笑顔で迎えてくれる義姉の様子がおかしい。
気になるけれど、深く聞いていいものか。挨拶を交わしてすぐにコーヒーの準備をする百香里。
何時もなら慣れた作業だからテキパキこなすのにややもたつく。

「……」
「顔色があまり良くないようですが、何処か悪いんですか」
「いえ。そういう訳じゃ」

相手は女性だしもしかしたら聞いてはいけないかとも思ったが、やはり気になって仕方ない。
声をかけると苦笑いして大丈夫と返事が来た。
それにしたって何時もの元気な微笑みではない。何処か暗い。言えないようなことなのか。

「まさか兄さんが何か」
「へえ。あの人何やらかしたの」
「渉か。挨拶もなしに行きなり入ってくるな」
「ねえ、何したの?」

真守と自分だけだと思ったのに。いきなり後ろから渉の声がして驚いた。彼は挨拶もなしに椅子に座る。
何時もならテレビに夢中なのに生き生きとして会話に入ってくるパジャマ姿の渉。
こういう話題は好きなのか何時に無く楽しそう。

「そういうんじゃないです。すみません」
「何かあったのなら1人で悩まずに相談してください」
「はい」
「こんな頭固い奴にしてもしょうがないと思うけど」
「何だと」
「まあ。何かあったら俺がユカりんを色んな意味で慰めてやるからさ、そう暗い顔すんなって」
「馬鹿らしい」
「あ、あの。コーヒーいれますね」

相談するようなそんな深刻な事じゃないのに。真守は真剣な顔で何時でも相談に乗りますと言ってくれた。
渉も冗談めかしてはいるが気にしてくれているようだ。忙しい人たちなのに。悪い事をした。
朝から暗い顔なんてしたら駄目だと分かっていたのに。慌てて止まっていた手を動かす。

「おはよーさん」
「兄さん」
「何や?」
「……、おはようございます」
「はあ?…気持ち悪いなあ。ユカリちゃん僕にもコーヒーちょーだいな」
「はい」

最後に起きてきた総司。台所でせっせと準備する愛妻を眺めニヤっとして。
弟たちの何やら怪しい視線を感じつつ朝食を食べ。今日も秘書と専務に引っ張られて会社へ。
愛しい妻は玄関まで来てくれて。いってらっしゃい、と笑顔で手を振っていた。


「ユカリちゃん、なんかあったん?何やろ。こう。違和感があるんやけど…お前らの態度にも」
「自分が1番ご存知なのでは」
「何や真守、意味深な言い方やな」

隠してはいたが何時もの百香里ではないと総司も感じていた。会社へ向かう車内。
思い切って真守に話を聞いてみるが明確な答えは返ってこなかった。
自分が1番知ってるといわれても何も浮かんでこない。

「特に意味はありませんよ」
「なんやもーー!きーにーなーるーわー!」
「社長、危険ですので専務を離してください。……さもないとドツきまわしますよ」
「千陽ちゃん怖い…」

自分の知らない間に何かあったのだろうか。百香里も弟たちも何だか何時もとちょっと違う。
社長室に入って千陽から今日のスケジュールの確認を聞きながらずっとその事を考える。
百香里を不愉快にさせたろうか、悲しませたろうか、それとも他の何かこう。

「以上です」
「はーい」

何て考えている間に確認終了。

「……、聞いてみたら如何です」
「なにを?僕きいてたでー?これから会議あるんやろー?」
「今から会議したって何も頭に入らないでしょう、奥様の事しか無いんですから」
「でもな。でもな。何がおかしいんか何でそうなったんかさっぱり」
「だから、聞けばいいじゃないですか。奥様に、なんでやねん!と」
「使い方変とちがう…?」

でも、確かに千陽の言うようにここでグダグダしているよりも直接聞いたほうがいいか。
5分ほど時間を貰って家に電話をかける。
千陽は気を利かせて社長室から出て行った。長電話は禁止ですよ、と釘をさしてから。

『はい。松前です』
「あー、もしもし。私だ」
『……何方さまでしょうか』
「あぁーん!もう。僕の事わからんの?寂しい』
『総司さん?またこんな時間に』
「秘書公認や。でな、話があるんやけど」
『ええ、何でしょうか』
「昼ごはん一緒にたべよー」
『……、…本当に千陽さん公認ですか』
「うん。公認。なあなあ、食べよ食べよ。食べてくれんと拗ねる」
『分かりました。私何処に行けばいいですか』
「まってて。迎えに行くから」
『はい』

やはり電話で聞くなんて性に合わない。百香里の声を聞いたら会いたくなった。
こうなったら会って面と向かって百香里から聞き出そう。ついでにキスとかボディタッチとかもしよう。
それからの社長は驚くほど働いた。会議にもちゃんと出て発言もして、難しい顔をして聞いている。
後ろで待機していた千陽はこれは何かあるな、と怪しんでいた。けど真面目にしてくれるのは良い事。
今日は専務の負担が少なそうだと思いながら、何時もこうならいいのにと付け加える。


「は?」
「なあなあ、オンナゴコロを掴むお店って何処らへんにあるんかなぁ」
「……もう新しい女作ったのか」
「アホ抜かせ。ユカリちゃんと行くんや。昼めし食べに」
「あー。…朝の事か」

社内に設置されている喫煙ルーム。トイレに行くついでにこっそり煙草をふかしていた渉。
そこに社長が来てやたらご機嫌な顔して隣に座った辺りからいやな予感はしていた。
こういうヤらしい顔をするときは大抵ろくな話をしない。普段からろくでもないけど。

「何が不満なんかユカリちゃんに聞くんや」
「……、…あんたに不満あんのかな」
「え?どういう意味や」
「俺からしたらあんたみたいなオッサンまずありえない。でもさ、ここに来るまで付き合ってたんだろ。
不満あったらその時点でさよならしてるだろうし、わざわざ結婚なんて地獄いかねえよ」
「そ、そうか」
「あるとしたら、今の現状に何か……、まあ、この店行ってみれば?」

渡したのは総司の知らないお店のマッチ。

「お前、なんや今日はめっさ頼りになるなあ」
「特別いい店教えてやったんだそろそろ消えろよ」
「よしよし。お前はほんま可愛い弟やなあ。ええ子ええ子」
「おいっ…、頭撫でるのやめろ。焼くぞ…こらっ」

まるで犬でも可愛がるように渉の頭を撫でくりまわし上機嫌で社長室へ戻っていく。
せっかくセットした髪をボサボサにされて不機嫌極まりない渉。死ねと悪態をつくが聞こえてない。
何であんなのが兄貴なんだと愚痴りながら喫煙ルームから出るとまっさきにまたトイレに向かった。
この頭のままでは戻れない。本当に最悪だ。

「ほなお昼行ってきますー」
「お待ちください社長。昼からのスケジュールを考えますに外食されるよりも社内で食事をなさったほうが」
「硬い事言わんでええやん、もう予約したしー」
「何時の間に。秘書を通さずにまた勝手な!」
「なあ、昼からは馬車馬のように働くからみのがして?真守とランチセッティングしたるし」
「またそんな。今回は本当に時間が無いんですからのんびりしないで食事が終わったら直ぐに戻ってくださいね」
「うん」
「……で。専務と昼食ってほんとに?」

百香里とは外で食事したい。社内だとまた気をつかうだろうから。何より雰囲気が出ない。
何とか真守を差し出して千陽の了解を得る。時間は限られているから手早く車を手配してマンションへ。
事前に連絡をしてある為マンション前には既に自分を待つ愛しい百香里の姿があった。
此方を見るとニコっと微笑んで手を振る。もう、可愛い事極まりない。このまま一緒に逃げたいほど。

「総司さん」
「可愛いなあ。もう…ほんま、可愛い」
「……あなた」

彼女が乗り込むなり運転手の存在も関係無しに妻を抱きしめる。頬をくっつけて幸せ。
百香里も視線を気にしつつ、でも嫌がったりはしない。夫の手を握って幸せ。
総司の合図を受けて運転手は車を走らせる。渉が教えてくれた店へ向かう為に。


「さ。何でも頼んで」
「また立派なお店」
「静かでええ店やね」
「はい」

渉が紹介してくれたのは若者に人気のお洒落なレストランか何かかかと思ったら意外にも渋い和のお店。
立派な門をくぐるなり和服の仲居さんが来て、予約した1番奥の広い個室へ案内される。
開かれた大きな窓からは綺麗な庭が見えて季節を感じる部屋だ。百香里も気に入ったのか綺麗ですねと笑顔。
気に入ってもらえて嬉しい総司。でも、聞きたいことがある。
メニューを見てどうしようか悩んでいる彼女はそれこそ押し倒したいくらい可愛いけど。

「百香里」
「はい。あ。私この紅葉ランチがいいです」
「あ。うん、僕もそれにするー」
「じゃあ仲居さんを呼びましょう」
「うん……あ。いやいや、ここは真面目に」

背筋を正してたるんだ顔もきりりと引き締めて。不思議そうな顔をして此方を見る百香里。
とりあえず自分も彼と同じように背筋を正して聞く準備。

「あの、何ですか」
「百香里、俺な。その、心配やねん」
「え?」
「何時もと違う百香里が怖い。俺、何かしたんかなって…不安になる」
「今朝の事ですか?あれは」
「……なに?」

自分の前では元気そうに装っていたけれど、何時もの百香里は自然体でもっともっと笑顔が可愛い。
作り笑いの彼女なんて見たくない。何時もの彼女に戻って欲しい。
その原因が自分にあるのならばなんでもする。けど、それが分からなくて。不安だけが残る。

「あれは、……少し、怖くなったから」
「何が怖いの?改善するから教えて?」
「総司さんが怖いんじゃないんです。……今の生活に慣れてしまう自分が怖くて」
「……い、……今の生活、…嫌なん?」

それはつまりこの新婚生活が嫌だということなのだろうか。だとしたらそれ以上のショックはない。
やぶを突いて蛇が出たと俯く。こんなことなら聞かなきゃよかった。
がっくりと肩を落とす総司に百香里は慌てて立ち上がって彼の隣に座る。

「そうじゃないんです。その、幸せすぎて、怖いんです」
「それってどう理解したらええ?俺ようわからん」
「総司さんを愛してます。ずっと傍に居たいです。でも、私は貴方に見合う妻になれるか……不安で」
「そ、そんなん気にしとったん!?」

どんな理由が飛び出すかと腹を括ったら。それでも百香里は真剣な顔。
日ごろからそんな冗談を言う子ではないからそれが本心であり彼女をずっと悩ませていた事なのだ。
拍子抜けしたものの、これはすぐに処置できない事だからある意味難しい問題。

「いきなり自分をかえるなんて出来なくて。お金あるのに切り詰めたりバーゲンとか安売りにいっちゃって。
総司さんに恥をかかせたらどうしようって。社長夫人なんて言われてもどうしていいかわからなくて。
いつかはこの生活に慣れるのかもしれないけど今はそんな自分が辛くて……それで、…すみません」
「恥かしいやなんて一度も思った事ないよ。ほんま、堪忍な。社長になるやなんて自分でも思ってへんで。
百香里にちゃんと説明せんかった。結婚したらいきなりやったもんな。生活ガラっと変わってしもたのにな。
俺が分かってやらんとあかんかった。ほんま堪忍」
「いえ。……言わなかった私もよくないんです」

百香里を抱きしめると頬にキスする。
結婚して今のマンションに引っ越してからずっと、少しずつ貯めていた彼女の不安と違和感。
それでも何とか打ち解けようと笑顔で頑張ってきた。
生い立ちもそうだがまだ20歳の彼女にすべてを理解して社長夫人として振る舞い生きろというのも酷。
当たり前の事なのに、もっと早くそれを感じ取ってあげたら。何時も百香里を想っているつもりだったのに。

「何時でも何でも言うて。何でも聞く」
「……あなた」
「百香里を手放したら何も残らん」

抱きしめながら何度も謝ってオデコや頬にキスをして彼女の感触を確かめる。
百香里も戸惑ってはいたが抱き返した。

「じゃあ、教えてください」
「なに」
「私は、今のままでもいいでしょうか」
「好きでいてくれる限りどんな百香里でも俺は愛せる」
「服とか靴とか鞄とか無駄遣いしても?お掃除とか手抜きになっても?」
「ええよ。好きにしたらええ」

本当は百香里なら何でもいい。料理が上手でなくても掃除が得意でなくても。
お金にしっかりしているのも。総司はよく無駄に浪費するから寧ろ大歓迎だ。
太陽のような笑顔と明るく元気な彼女で居てくれたら。それで十分。

「もう。ダメですよ!総司さんは社長さんなんですから!しっかりなさってください!」
「あははは。それやったら大丈夫やな」
「……あ。もう。……いじわる」

すっかり総司の膝に座って抱きしめられている百香里。何時もこうして触れ合っているからか、
特に恥かしがる様子は無く。それから料理が到着するまで軽いキスなどをしてイチャつく。
外から声がして慌てて席に戻り、目の前に並べられた豪華な昼食に思わず微笑み総司を見た。

「ん?なに?」
「ありがとうございます。総司さんが頑張って働いてくださるからこんな美味しい昼食が食べられます」
「何言うてんの、ユカリちゃんが夜頑張ってくれるからやん」
「……たまに朝も昼も頑張ってますけどね。でも、お役に立ててうれしいです」
「今夜も頑張ってもらお」
「はい。頑張ります」
「はあ、今から突然高熱にうなされへんやろか。家に戻ったら途端に回復してユカリちゃんと」
「ダメですよ」

楽しい昼食を終えると悲しい別れ。あと5時間は会えない。
マンションまで送り届ける車内では散々唇や頬やおでこにキスされて流石にそれは恥かしかった。
惜しみながら泣く泣く百香里をおろし会社へ戻る。でも、彼女の為ならそんなに辛くない。
百香里の言葉は魔法のようで、昼からも総司は馬車馬のように真面目に働いた。



「ただいま」
「渉さんお帰りなさい」
「……、無事解決したみたいだな」
「え?」

夕方、今日も今日とて一番乗りで帰ってきた渉。手には小さなビンに入った液体。
朝は元気が無かった百香里も笑顔で迎えてくれた。どうやら兄貴は上手くやったらしい。
ビンを机に置いて何時ものように適当にスーツを脱ぎ散らかす。それをすぐにハンガーにかける百香里。

「これ、前言ってた果実酒」
「これが。綺麗な色。どうやって飲むんですか?そのまま?」
「そのままでもいいけど、氷入れて飲むほうが美味しい」
「じゃあ早速準備しましょう」

あまり酒を飲んだことが無いという彼女の為に買って来たアルコール度数も低めで甘いお酒。
購入したのではなくて趣味で作っている知り合いから分けてもらった。兄弟は辛口がすきなので彼女の分だけ。
グラスを用意して氷を入れてそこに果実酒を注ぐ。渉はつまみとビールを出してもらって。

「あとさ。ついでに買って来たんだけど」
「はい。何ですかその箱」

あとはつまみを準備するだけ、という所で渉が何処かから発泡スチロールの箱を持ってきた。
廊下にでも置いていたのだろうか。大きすぎる訳でもなく手のひらサイズでもない。中ぐらいの大きさ。
テーブルに置くとどうしたものかと困った様子。彼にしては珍しい。

「これさ、伊勢えびとアワビなんだけど」
「すごい!両方とも食べたことないです!」
「そうだろうと思って選んだんだけど、さ」
「何か問題でも?」

伊勢えびもアワビもスーパーで売っているのはみても買ったことなど一度も無い。
この箱にはそれらが入っているのか。何だかドキドキ。さすがお金持ちは違う。
朝はそんな差が埋らなくてどうしようと悩んでいたのに、食べ物には正直に反応する。
嬉しそうな百香里に対して渉は相変わらず困った様子。

「それが」

渉が言いかけた所で箱がらギーギーと変な音。ちょっと動いたような気もする。

「あの、今、何か音が」
「ユカりんってさ…こういうの…得意?」
「え?……え」

渉が箱を開けて取り出した見たことないくらい大きな伊勢えび。
どうやら音の原因はこれ。ギーギーとどこから立てているのかわからないが音をさせて。
まだまだ健在である事をアピールするかのごとく彼の手で跳ねて暴れている。

「刺身で食いたいんだけど。捌ける?」

ほら、と伊勢えびの顔を百香里に思いっきり近づける。相変わらずギーギーいいながら暴れるえび。

「きゃああああーーーーーーっ」

硬直状態だった百香里だが伊勢えびと目があうなり正気に戻り大絶叫。

「何事だ!」

そこへ何時もよりだいぶ早く帰ってきた真守。百香里の絶叫を聞いて慌ててリビングに入る。
何が起こったのかわからないが入るなり百香里が後ろに隠れてきて怯えていた。
他に居るのは渉だけ。

「真守さんっ…」
「義姉さん大丈夫ですか?渉!お前何をした!」
「何もしてねぇよ。ただこれ」
「それは伊勢えびか?」
「捌いてって言っただけなんだけど。もしかして生きてるのみるの初めて?」

事情を聞いた真守は百香里を落ち着かせてソファに座らせると馴染みの店へ連絡してそっちで捌いてもらった。
帰ってきた伊勢えびは綺麗に刺身になって盛り付けられていて、アワビも綺麗にスライスされていた。
これなら大丈夫だろ?と渉が見せると百香里は飾りの頭に微妙に恐れつつも静かに頷いた。

「じゃあ、乾杯」
「乾杯」

気を取り直し高そうなグラスで乾杯。つまみも豪華。

「どう」
「甘いです。……美味しい」
「そう」

恐る恐る酒を口に入れた百香里。思いのほか甘くて飲みやすいのが気に入ったようす。
一気に飲んでは勿体無いと思ったのか少しずつチビチビ飲んでいる。
まだあるよ、と言い掛けてやめる。これはこれで面白い映像には違いない。

「わ。美味しい」
「1匹2万」
「うっ……に、にま…ん?」

続いて伊勢えびの刺身。やっぱり怖いのかえびの頭を渉の方へ向けてひと口。
その美味しさに感動したようで手足をジタバタさせてのオーバーなリアクション。
ただ値段を聞いてガチっと固まった。やっぱりこの人は面白い。

「冗談。知り合いの店だからさ、結構安くしてもらった」
「それでも高いんでしょうね……わあ」
「高けりゃ美味いってもんでもないけど。ま、たまに食うと美味いよな」
「……私にはよくわりません、そういうの」
「その方がいいかもな」

続いてアワビも食べて似たようなリアクション。そんなに喜ばれてしまうと食べ難い。
結局殆ど百香里にあげて自分は家においてあったピーナッツを食べる。
自分にはこっちのほうが美味いと言って。

「そうだ。私も本とか読んでお酒の事覚えました」
「へえ。あの人とどっか店でも行くの」
「え?いえ、そういう訳じゃ」

何だかんだ言いつつ2人で向かい合って酒を飲むなんて何だかいい雰囲気。真守は部屋で着替え中。
百香里は待とうといったのだが真守本人がどうせ自分は飲まないから先にどうぞ、と言って進めた。
とはいえ、戻ってきたらまた色々と面倒な事を言うのだろうが。

「じゃあ何で?」
「何ででしょ。……あ。こうやってお酒を飲むときにお話ししやすいから、かな」
「今考えるなよ」
「すいません」
「まあ努力は認める」

変なところで頑張る、自分より若い義理の姉。苦笑しているとまた謝ってきた。
朝の元気の無い顔から一転。また明るい笑顔に戻ったのはいい事だ。
それがあのお気楽能天気な兄貴のお陰だと思うと少々癪に障るが。

「あの、お酒を飲む店って。居酒屋みたいな所ですか?」
「まあ、そういうのもいいけど。バーとか、クラブとか」
「何だか気後れしそうです……」

不安そうにグラスを傾け酒を見つめている。本当に何も知らない子なんだと再確認した。
これで彼女が遊びを知ったらガラッとかわるかもしれない。誘ってもいい気がしたけれど。
兄たちがダブルで煩いだろうからここは黙っていよう。

「誘ってみたら?ほいほい尻尾振ってつれてってくれるだろ」
「で、でも。そういう所ってその、綺麗な女の人が沢山居ません?……総司さん、そっちに行かないかな」
「ンな事しねえよ、あのおじさんは」
「ですよね!」
「たぶん」
「………、う、…う…」
「冗談だって、そんな本気にすんなよ」

その後、真守が戻ってきて慌てて夕食の準備をする。少ししか飲んでないのに顔が赤い義姉に驚きつつ、
何を飲ませたんだと怒るとただの果実酒だよと何処か馬鹿にした視線で返す渉。
そこでまた小競り合いがあるのだが、お酒を飲んで陽気になったのか何時もより笑顔な百香里に止められる。
明るいのは良いことだけど、やたら意味もなく笑ってるのがちょっと怖い。

「ユカリちゃん!さあ。がんばろ!」

今日も帰りが遅かった総司。だけどやる気満々。起きて待っていてくれた百香里を抱き上げてベッドへ。
何となく何時もの彼女と違うようなきがしたけどそんな事気にしない。

「眠いです……お酒飲んだからかな。……ん…だめ」
「ゆ、ユカリちゃん!僕こんなに準備万端で…あ!待って!じゃあ、朝な。朝」
「……」
「ううう……ユカリちゃん…」

それを楽しみに帰ってきたのに、ユカリはベッドに入るなりそのまま眠ってしまった。
パンツ一丁で虚しくその隣に座っている総司は無理に起こすわけにもいかずにただ呆然。
渋々そのまま彼女を抱きしめると1日の疲れが来たのがそのままぐっすりと眠った。


「総司さん。総司さん」
「……んーーー。あと5分。あと5分ー」
「もう千陽さん下で待ってますよ」

翌朝、すっかり寝坊して朝えっち所ではなく百香里に起こされる総司。
枕を抱きしめて嫌やと小学生のような抵抗を試みる。

「ほんまにぃ?…あー…しまった。…でも、百香里とえっちできへんから今日はもう会社いかへん」
「そんな事言わないでください。頑張ってる総司さんも大好きなんですから」
「……愛してる?」
「はい。愛してます」
「じゃあ、チュウしてくれたら起きる」
「はい」

キスするとどうにか機嫌を直し秘書にビシバシ怒られながらも会社に出て行った。
1人見送る百香里。口にはしないけど、やっぱりこの時は寂しい。
リビングに戻って朝食の片付けをする。今日は総司が遅かったから弟たちと食べた。

「……家計簿、つけよ」

片づけを終えると机に置いたノート。昨日寝てしまって書けなかった分を朝のうちに書いておこう。
無駄かもしれないけど、赤なのか黒なのかよくわからないけど。
今無理に自分をかえなくても、もしこれから先かわっても。総司が愛してくれるなら大丈夫。かな。
何て思いながら記録をつけた。



「というわけで真守、お前昼飯千陽ちゃんと食べてこい。社長命令や」
「……また勝手な」
「ええやん減るもんでもないし。社内で食べたら噂がたつでー」
「そんな事を急に言われても困ります、僕は」
「任せとき。そういう時は渉や。あいつは頼りになる」
「社長ともあろう方が遊びほうけている20代の若造を頼るなんて、世も末だ…」
「で。お前の店も決めてもらってきた」
「早いですね…」
「ええ感じになったら後ろのラブホに入れるというおまけつきの」
「渉ーーー!!!」
「まあ、多少遅刻してもええからなー」

これで自分を止めるものは居ない。昼になったら速攻で家に帰る。
そして素早く百香里を抱き上げてベッドへ向かおう。我ながら中々いいアイデア。
もっともっと夫婦の会話が必要だと思うから。と大層な事を思いつつ口元はニヤリ。


おわり


2009/01/31