怯え


「失礼します。社長」

お電話が、と言おうとした秘書の目の前にはだらしなく膝を付いて弁当を食べる社長。
この感じは恐らく山積みの仕事が嫌なのと愛しい嫁に会いたくて心配で恋しいのだろう。
察っする事はできてもだからってなにも出来ないけれど。咳払いして社長の前へ。

「んー?昼飯中なんやけどー何処の誰からー?」
「…奥様からお電話です」
「え!ユカリちゃんから!?ほんま!なんやろ!直接かけてくれたらええのにぃ」

パッと明るい顔になり電話を取る。こうなると分かってた。
けど、止めることは出来ない。それに彼女からかけてくるなんて、きっと何かあったのだろう。
妊娠中ということもあり千陽も社長らしく仕事を優先してほしい傍ら気にはかけている。
だから昼食中の今くらいはと邪魔をしては悪いだろうと部屋から出た。

「どうかなさいましたか社長」

数分後、何故か微妙な表情で秘書課にやってくる社長。

「あんな、悪いんやけどちょっとウチ行ってくれるか」
「え?まさか奥様に何か」
「ユカリちゃん自身には何もないんや。けど、何かよう分からん荷物が届いたとか」
「分からない荷物ですか」
「恐らくは俺に祝いを贈ってきた誰そなんやろが。ユカリちゃんは知らんやろ。
何やナマモノらしいんやけど。あけるにあけられんとかなんとか」
「はあ。よく分かりませんが様子を見てきます」
「頼むわ。何や怯えてた感じしたし」

彼自身、百香里がどういう状況なのかわからないらしい。首をかしげている。
本当は自分が行ってやりたいがすぐに会議がある。抜けられない。
ということで急遽抜擢された千陽が会社を出てマンションへと向かった。
百香里に危険はないようだし、もしかしたらいきなり高価なものを送られて
戸惑っているだけかもしれない。彼女はそういうものに慣れていないから。

「秘書の千陽です、社長に仰せつかってまいりました」
『は、はーい』

聞こえる声は確かにちょっと上ずっているような。ロックを解除してもらい中へ。
広いエントランスを抜け部屋に向かうエレベーターを上がる中でスケジュールの確認。
自分が居なくてもまだ大丈夫。社長はちゃんと会議に出てくれているし。問題なし。

「百香里さん?」
「よかった。千陽さん」
「どうしたのそんな濡れて。それもなんか…生臭い」

玄関をあけてもらい1歩入ったら妙に生臭い。
そして目の前にはしめっぽい百香里。臭いは彼女からもプンプンしてくる。
困った顔をする彼女。意味がわからない千陽。とりあえずリビングへ。

「あの箱なんです」
「ちょ、ちょっと。何か動いてるけど。何?あれ」
「お魚です」
「さ、魚!?」

大きなテーブルにどっしり置かれた発泡スチロール。
それがガタガタと揺れていて隙間からは何やら水が漏れていて。
部屋一面の生臭い香はこれが元なのだと分かる。ついでに百香里が臭うのも。
おそらくは箱を開けたときに水の直撃を受けたのだろう。

「高級なお魚なんだと思います。見たことないですから」
「とにかくシャワーを浴びてきてください」
「はい」

まさかここまでハデに暴れるとは思ってなかった。
臭くて汚れてしまった部屋にしょんぼりしている百香里を浴室に行かせ
千陽は箱の処理にあたることにする。といっても自分もあまり触りたくない。
午後からも仕事はある。それに専務の印象も悪くなりそう。
なんでこんなものを送ってくるのかとだんだん苛立ってきた。

「魚沼水産か。…媚売ろうって魂胆が見え見えじゃない。あのタヌキ親父」

恐る恐る宛名を見れば少しだけ接点のある会社名。ついでに過去パーティで会った時、
セクハラまがいの事を言われ笑顔で撃退した過去も思いだされる。
が。苛立っても部屋は片付かない。覚悟を決めて掃除する事にした。

「大丈夫ですか」
「これくらい何のその」

30分ほどして百香里がリビングに戻る。
そこにはせっかくビシっと決めたスーツをぬらして掃除にはげむ千陽。

「魚、まだ元気ですか」
「ちょっと弱ってきましたけど。たまに動いてきますから気をつけてください」
「いっそ包丁でブスっと刺しておきましょうか」
「私がやります。また跳ねるだろうし」
「じゃあ包丁持ってきますね」
「1番大きい奴で」
「はい」

台所から包丁を取り出し腕まくりした千陽に渡す。
百香里は濡れないように彼女の少し後ろで様子を伺う。
魚は今は大人しくしているが刺したら最後の抵抗をするだろう。
これはもう戦いだ。千陽と魚の。

「この!この!大人しくしろーーーー!」

千陽の野太い声と共に格闘は終わり静まり返るリビング。

「終わったんですね」
「はい。終わりました」
「かっこいいです千陽さん」
「いえ。これも秘書の…」

仕事じゃないな。でも冷静になったら負けだ。

「千陽さんもシャワー浴びてきてください。片付けますから」
「でも」
「そのままで会社に戻るのは…」
「お借りします」
「私のでよければ化粧品つかってください」
「ありがとうございます」

一仕事終えた爽快感の後は魚の鱗や生臭い水まみれという現実。
千陽はそそくさと風呂に向かいシャワーを浴びる。スーツも化粧も台無し。
といってもここには百香里しかいないからメイクは借りればいい。
このさい何時もと違ってもいい。スーツは香水でごまかせるだろうか。


「どう料理しようかな。お刺身…あぶり…からあげ…お腹空いてきちゃった」
「義姉さん」
「あれ。真守さん?どうしたんですか」
「兄さんから話を聞いて。御堂さんも中々戻らないから心配で」
「今シャワーを」
「何があったんですか。この臭いは?」

千陽が戻らないうちにリビングに入ってきた真守。心配そうに百香里を見て
彼女に何事もないのに安堵しているようだが部屋の異臭に気づく。
事情を説明しこんな部屋にしてしまったのと心配を書けた事を謝った。

「自分で考えればいいのに総司さんに電話してしまった私が悪いんです。本当に、反省してます」
「こんな大きな箱が来たら確認をしたくなりますよ。…まさかここまで義姉さんが」
「業者の方が持ってきて、それで何か説明をするようだったんですけど。
電話がかかってきてまた後で来ますとかなんとか」
「そうですか。…魚沼水産か」
「真守さん?」
「これはこのままにしておいてください。おそらくはその業者が処理してくれるでしょう。
部屋は換気をして。掃除をしたいと思うかもしれませんがそれは僕と渉でしますから」
「私が馬鹿な好奇心で箱を開けてしまったからこうなったんです。私が掃除します」

ちょっとくらい覗いてもいいかな、なんて思って。子どもみたいな好奇心。
それがまさかここまで酷い事になるなんて思わなくて。申し訳ない。
松前家にくれたものなのに。今では無残な姿で箱に横たわる。

「そんな顔をしないでください。誰も貴方を責めたりしない」
「でも」

やっぱり申し訳ないな、と思っている所に廊下から此方にくる足音。

「業者…ではないか」
「千陽さんです」
「ああ、じゃあ彼女と掃除をしましょう。これくらいならすぐだ」

上スーツを脱いで腕まくりをする真守。そこへドアが開き千陽。
百香里だけだと思っていたから思いっきりノーメイクのだらけた姿。
振り返った真守と目が合いそうになり慌ててドアを閉めた。

「今化粧品持ってきますね」

何となく察した百香里が自分の寝室に向かい化粧道具一式をもっていく。
思っていたよりだいぶ少ない。基本薄化粧だから。申し訳ない程度。
これで大丈夫だろうかと恐る恐るドアを開けて千陽に渡した。
何もしてなくても十分綺麗だとおもうけど、やはりそこは乙女心。

「どうしたんですか?」
「なんでもないです。あ。私も掃除します」
「では負担の少ない場所を」
「はい」

10分ほどして化粧を終えた千陽も交え3人で掃除。
生臭さはまだ少し残るもののだいたい綺麗になった。
換気をして一息ついているとチャイムがなる。

「すいません奥様。あ。旦那様も」
「いえ、僕は弟です。それよりあの魚は」
「はい。いきがいいものを食べていただきたいので此方で解体させていただきます!」
「もういきは良くないですが、解体はお願いします」
「え?…はい」

あまりの惨状に解体しにきた業者は驚いていたが文句は言わず
さすがプロという技で綺麗に魚はよく見る姿におろされた。
箱も不要のものも全部引き取ってくれて食べられる部分だけが冷蔵庫に。
暫く買い物はしなくていいのではと思うくらいパンパンになっている。

「それでは僕たちは会社に戻ります」
「はい。あの」
「日本酒なんていいな」
「え」
「夕飯楽しみにしてます、兄さんも恐らくそう言うでしょう」
「真守さん」
「では」

軽い笑みを浮かべ千陽と共に部屋を出て行く真守。
まだ申し訳ない気持ちはあるけれど、でも、ちょっと気持ちは落ち着いた。

「ということで。報告は以上です」
「そうか。2人とも悪かったな。せやけどあのおっさん面倒な事しよって。
そもそも昼間っからンな迷惑な!ユカリちゃん1人やのに!あほんだら!」
「まさか夫人1人とは思わなかったんでしょう」

会社に戻るとすぐに報告をするために社長室へ向かう秘書と専務。
先に千陽が出て、続いて真守も出て。
2人そろって連絡もよこさず会議が終わっても戻らないから不安で仕方なかった総司。
全てを聞いて安心したものの百香里1人の部屋に業者というか男が入ったのは苛立つ。

「あのおっさんあんま好きやない」
「ビジネスは好き嫌い関係ないでしょう」
「わかってる。け、ど、な。まあ、ええわ。ユカリちゃんが無事でおるなら」
「箱を開けてしまったのを気にしているようだった。だから」

そこはあまり深く言わずさらりと流してやってほしい。
みなまで聞かずとも分かる。そんな兄弟のやりとりを聞いていた千陽。
一見ばらばらに見えて上手く纏まっているんだよねと最近よく思う。

「ええやんな。俺かて目の前にあやしー箱あったらあけるし」
「まだ少し遠慮しているのかもしれませんね」
「そうやな。或いは、俺等の知らん所でイジメられてたりするかもしれへん」

現にマンションの奥様方には距離を置かれているようだし。

「何処にでも妬みはありますから。でも、そんな事を引きずる人でもないでしょう」
「元気で明るい子やもんな。はよ会いたい…」
「それまでにこの山積みの資料を」
「片付けてくださいね?社長」
「もう堪忍してやぁ」

泣くまねをするがそんなもので絆される専務と秘書ではない。
結局残業。


「ん?なに」
『あの、今大丈夫でしょうか』
「ああ。いいよ。今出発しようとしてたとこだし」

そんな兄たちとは違い定時に帰る渉。
車に乗り込んだところで携帯が鳴った。梨香かと思ったら百香里。
こんな時間にかけてくるのはたいてい買い物を頼まれる時だ。

『日本酒を買って来てもらってもいいでしょうか』
「いいよ。何てやつ?」
『名前はよく知らないので、渉さんのお好みで』
「了解。今日の夕飯なに?」
『今日はお魚尽くしです。とっても美味しそうですよ。お刺身とか焼き物とか』
「お。いーね。それで日本酒?買ったらすぐ帰るから、追加注文は他の奴にしてね。じゃ」

何があったか知らないが豪華な夕飯とおつまみが待っているらしい。
もしかしてスーパーの特売日?とかすっかり百香里に毒されている渉だが
そんなことは置いといて馴染みの酒屋に向かう。

「渉さん?」
「え?…あ、ども」

どれがいいか選んでいるところへ声をかけられる。
振り返ると結構年上な女性。どこか品があり淑やかな印象。
そしてこの人とは過去に数回だけ会ったことがある。
回数は少なくても印象深い女性だ。

「この前は唯がお邪魔をしてしまって申し訳ありません」
「俺に謝られても」
「あの子が渉さんに止められたと怒っていたので。ありがとうございます、止めていただいて」
「あのさ、勘違いしないで欲しいんだけど。面倒はごめんなだけだから」
「はい」

総司の前妻。離れた所に住んでいたはずだが、
もしかして近くに引っ越してきたのだろうか。
なんとなく気まずい空気。

「あんたからもちゃんと言い聞かせといてくれよ」
「はい」
「あの人も、今の嫁さんに夢中なんだ。ウザイくらい」
「幸せなんですね。よかった」
「…あんたもさ、幸せになりなよ。そしたら娘もわかってくれるだろ」

過去にしがみついても仕方ないって事。

「そうですね。努力してみます。では」

お酒を手に先に会計を済ませた女性は去っていく。
渉はせっかく盛り上がっていたテンションが少し落ちる。
けどそんな顔のまま家には戻れない。
酒を買い外で一服してから車に乗る。あまり変わらないけれど。
何もしないよりは幾分かマシというもので。あっという間に玄関。

「お帰りなさい」
「ただいま。何か臭いな」
「あ。まだ…分かります?」
「何?踊り食いでもすんの」
「踊りながら食べるんですか」
「あ。知らないならいいや。それより」
「はい」

部屋に残る生臭い匂いも刺身で酒を飲みながら百香里から聞いて納得。
すいませんと詫びる彼女に渉は大いに笑い飛ばした。あまりにもその光景がリアルに浮かんで。
その場に居たら笑い転げたかもしれない。百香里はただ苦笑い。

「なあ、ユカりん」
「はい」
「モトカノとかって気になった?」
「え。高校の頃…ですか?」
「まあ、そんなとこ」

夕飯は総司と真守が帰ってから。百香里も座ってお茶を飲みながら
チャイムが鳴るのを待っていたら不意に目があった渉に聞かれた。
昔のコイバナなんて義弟としてもいいのだろうか。なんて思いながらも
そう多くはない恋のお話。渉だしまあいいかと楽観視で。

「少しくらいは。彼はモテましたから」
「へえ。じゃあ嫉妬したり」
「そこまでは。今は私と付き合ってる訳ですし」
「男を信じてたわけだ」
「相手を信じないと交際なんて出来ないと思いませんか」
「……そうかな」

どうだろ、と視線を逸らす。

「梨香さんの事、信じてるんでしょう?」
「信じるってのがよく分からない」
「そうですか?あ、でも言葉で説明するのは難しいかも」
「皆が皆ユカりんみたいに馬鹿正直でイイコじゃないからな」

自分を偽ったり、相手の優位に立とうと細工したり、取り入ろうと媚を売ったり。
いろんなやつがいる。皆優しいいい人じゃない。渉は酒を飲み軽いため息。
らしくないことを言ったのはあの女にでくわしてしまったからだろうか。他人事なのに。

「そうだ。せっかくこんな美味しい魚あるんだし梨香さんも呼んで夕食を一緒にとかどうですか?」
「パス」
「え。ダメですか」
「あいつこういうの見たらテンションあげてきてすげえ煩い。
疲れてんのに面倒なのはごめんだから。…負担になるし」
「え?」
「いいからさ。通販でも見たら」
「あ。そうですね。今日は何を売ってるのかな」

それから暫くして2人一緒に帰宅。事情を説明しようとしたら総司に抱きしめられて。
何も言わなくていいと言われた。真守か千陽から聞いて知っているみたい。
苦笑しながらも4人そろって魚尽くしの豪華な夕飯を食べた。


「今日は大変やったやろ。疲れたやろ。俺が揉んだるからな」
「あの…さっきから胸ばっかり揉んでません?」

休憩を挟んでのお風呂。もちろん夫婦で仲良く。
百香里は謝るタイミングを失い総司の膝に座って抱きしめられる。
最初は肩とかだったのにだんだん手があらぬ方向へ伸びてきて。
今ではしっかり胸を揉まれている。

「またちょっと大きなったなあ」
「…優しすぎます」
「ん?」
「もっと…ちゃんと揉んでください」
「刺激たりへん?」
「たりへんです」

だけどもう少し愛撫されたい。感じる部分が鈍くなったのだろうか。
百香里のお願いを聞いて手に力を入れた総司の愛撫。
気持ちよくて薄っすら声が出た。やはり鈍ってはないようで。

「久しぶりに聞いたわ。ユカリちゃんの可愛い声」
「…総司さん」
「もっと聞きたいわ。…でも、今夜はあかんな。お疲れや」
「でも」
「乳首でイケたらなあ」
「あっ…もう…そんな引っ張らないでくださいっ」

百香里の反応を楽しみながら胸への愛撫はさらにネットリとしてきて。
更に強い刺激を求めるがやはりこれ以上は出来そうにない。
ただ体を洗うときにちょこっと彼女の下半身にも意地悪をして。
体調を整えたら次はもっとしような、とキスしてあがった。

「何や渉まっとったんか」
「別に」
「俺に何か話しあるんと」
「ねえよ。馬鹿」
「何拗ねてるん?」

先に風呂から上がった総司。廊下には何故か渉。
何か言いそうな顔をしていたが不機嫌そうに部屋に戻る。
なんだったのだろう。追いかけようとしたら百香里が出てきて。
湯上りの可愛さにすっかりそちらに気が向く。
また聞く機会はあるだろうと彼女と共に寝室へ入った。


続く

2010/12/03