誘惑
「元気そうで良かった」
「うん」
「享子から聞いてる、そんな広い部屋に居るより実家に戻った方がいいだろ。母さんも居るしな」
「ほらまたそんな事言って百香里ちゃんを引き離そうとするんだから」
「百香里の為を思って」
「どうだか。気にしないでね百香里ちゃん」
百香里の前に飲み物を置いて旦那の隣に座る享子。
兄に会う為わざわざ休日を選び遊びに来てくれたのにいきなりそんな話をするなんて。
空気が悪くなると知ってるくせに。注意する妻に反省所か不愉快そうな顔をする。
こんなにも意固地な人だとは思わなかった。それほど松前家の人々を毛嫌いしているのか。
「…はい」
百香里はその間に挟まれて苦笑いするしかないなんて。かわいそうだ。
「そーだ。編み物の続きしましょうか。石頭君は置いといて」
「享子。今日はゆっくりしていけ。無理にあの家に居る事はないからな」
「お兄ちゃん」
「そんな言い方しないで、今は優しく見守ってあげなきゃ」
「分かってる。何かあれば俺たちがすぐに駆けつけるからな」
「うん。ありがとう」
妹を兄というより父親のような気持ちで守ろうとしているのは分かるけれど。
享子は百香里を連れて部屋を移動する。
といっても彼女が住んでいるような何処までも広い部屋ではないのであっという間に到着。
趣味で色んな物を作っていて百香里にみせる。古着をリメイクしたものちょっとした手提げ
あと最近作り始めたアクセサリー。そして服。
嬉しそうに目を輝かせてすごいですねと見つめる百香里。
「子どもたちの服もね、最近は作ってないけど昔はほとんど自作だったの」
「もう先生の域じゃないですか。手芸教室開けますよ」
「そうね。早めに退職してそれでのんびり生活するって手も悪くないかも。けどね、
どうにも私には外でお勤めが向いてるみたいで。ずっと家に居るっていうのが苦手…なのかな」
「少し分かります。私も家でじっとしているのがちょっと苦手でした」
今ではもうかぶれないであろう小さい子どもの帽子を持って苦笑いする百香里。
一時期は家に居るのに我慢できず外へパートに出るなんて意気込んでいたけれど、
妊娠したし何より自分がそんな事をしたら総司に迷惑がかかる。だからやめた。
「立ち入ったことを聞いちゃうけど、松前さんはお小遣いみたいなものはくれないの?
外で遊んじゃ駄目って?まさかこのご時勢に女は家に居て家事だけしてろ!なんて主義?」
彼女の夫に会った事があるけれどそんな酷い人には見えなかった。だが見かけでは判断できない。
結婚したからってまだ20歳の女の子をあんな広い家に1人で置いておくというのも酷な気がする。
自分なら遊びたいし、同じ歳の頃はそれはもう存分に遊んでいた。
「総司さんは一度も私に命令なんてしたことありません。私のしたいようにさせてくれます」
「なんだ。じゃあ思いっきり遊んじゃえばいいじゃない。あなたも彼も幼い頃から苦労してたんだし」
今はもうそんな苦しいことはないのだから。存分に遊んでいい誰も咎めたりはしない。
どうやら旦那さんは見たまんまの人のようだし。妊娠した今はそんな派手な遊びは出来ないだろうけど、
それでもそれなりの遊びは出来るはずだ。真面目なのもいいがたまには発散しないと。
繰り出される義姉のもっと遊んでいいという話しに頷きながらもちょっと困った顔をする百香里。
「あの、なんていうか。…遊べって言われてもどうしたらいいか分からなくて。私1人は寂しいし。
総司さんも一緒じゃないと嫌だし。それに、家でやることも結構多いんですよ」
「そう。じゃあ、今度うちの子たちと遊びに行こうか」
「はい」
「貴方はまだ若いんだから。その時しか出来ない事ってあるものだし。若さはあっという間よ?」
「お義姉さん」
「あ。これは関係ない愚痴ね。あはは」
お金も時間も若さもあるのに。もったいないわね、と心から思う。
それからのんびりと編み物の指導を受け昼食を一緒に食べて家に戻る。
兄は再三もう少しゆっくりしていけとか夕飯も一緒にとか泊まって行けと言ったが
百香里はそれを全部断わってあのマンションへ戻って行った。
「大丈夫だろうか」
「そんなに心配なら見に行けば?素敵な部屋だったわよ?」
「お前は気楽だな」
「あなたが考えすぎなんです」
「自分のきょうだいが20も離れたしかもバツイチの男と結婚したらお前だって心配になるだろ?」
「幸せならいいと思いますけど」
「それは今だからだ。…何も分かってない。百香里はまだ子どもなんだ」
妹が去ったほうを眺めながら深いため息をする。これはまだまだ根深い。
子どもができたら少しは和らぐかと思ったがそうでもなかったようで。
多難だと思いながらも自分は百香里を応援しようと決めた。
「ただいま戻りました」
「あ、お、おか、…おかえり」
「どうしたんですかそんな顔して」
玄関を開けると百香里が買ってきたトレーナー姿の総司。
緊張しているような、不安そうな、ちょっと嬉しそうな。なんとも言えない顔で出迎えた。
いきなりそんな顔だからつい笑ってしまって。靴を脱いで総司の傍へ。
「行ったきり戻ってこんかったらどないしよおもて…」
「ここが私の家なのに?」
「そ、そう、やよね。そう。そう」
朝出発する時から少し様子がおかしかった。オロオロしてて。
何度もかえる時間を聞いてきて。だけど一緒に行こうとは言えなかった。
総司からは何もしない。兄に一方的に罵られる姿なんて見たくない。
「ケーキ買ってきたんです。お茶入れますから皆で食べましょう」
「ええね」
「…その前に、抱きしめて」
「うん」
あとオデコにキスも。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました。お茶を淹れてこのケーキを食べようと思ってるんですけど、
真守さんも如何ですか?渉さんも、お2人とも甘いのは大丈夫だったですよね?」
「いいですね。じゃあ、僕は渉を呼んできます」
「お願いします」
リビングに入ると新聞を読んでいた真守。立ち上がり渉を呼びに出て行く。
百香里は台所に向かいお茶の準備。総司はその傍で手伝い。
皿を持ってきてもらったりカップを出してもらったり。
「ユカリちゃん何にするん」
皆揃って席についてから誰が何を食べるか選ぶ。
やはり最初は百香里が選ぶべきだろうとなったのだが。
「やっぱり王道のショートケーキ!…といいたい所なんですけどチョコも美味しそう。
あ、でも、モンブランとかも結構好きだったりして。シュークリームも大きくていいな…」
「そんなんじゃ明日になっても決まらねーな」
「渉」
「そうですね。私は余りでいいです、皆さん先に選んでください」
食べてしまえばどれも一緒。わかってはいるのに悩むのは女の子だからか。
「じゃ俺チョコもらいー」
「……」
「あのさ。そんな顔されたら食えないんですけど」
男たちは気を使いながら、視線で会話しながら、百香里の様子を伺いながらケーキを選ぶ。
そして最後に残ったショートケーキが彼女の皿に乗った。美味しそう、と笑顔を見せる百香里。
うまく選べたようで3人とも内心ホッとする。
たかがケーキを選ぶのにこんなにも神経を使ったことはない。
まず誰もケーキなんてもの買ってこないけれど。すべては百香里が来てからだ。
「皆元気やった?」
「はい。あ、でも子どもたちは遊びに行っちゃってたみたいで」
「そうか」
食べているとさりげなく総司が尋ねる。何時もならもっと明るい口調で
他にもどんな事をしたのかとか、詳しく聞いてくるのに。静かだ。
それはきっと、遊びに行った先が兄の家だったから。下手な事は言えない。
「相変わらず俺らを悪魔か何かと思ってんだろ?いい迷惑だ」
「渉やめろ」
「お前らにも迷惑かけとるな。ぜんぶ俺が悪い、堪忍な」
「兄さん。…もうその話はしないようにしましょう。渉もいいな」
その話題はどう転んでもお茶をしながらの楽しい会話にはならない。
真守がちらっと視線で百香里を気遣えと指示をして2人は黙る。
「…ごめんなさい」
沈黙の中、ぼそっと百香里が言う。
「そんなん言わんでええから。ユカリちゃんはなんも悪ない」
「私がお兄ちゃんを説得できるくらいしっかりしてて利口だったらよかったんですけど。
心配されちゃうくらい出来が悪くて頼りないから。皆さんの足ひっぱっちゃって、ごめんなさい」
まったく勉強してこなかったわけではない。けど、奨学金で大学へ行くよりも
早く社会に出て稼ぎたかった。母の負担を減らせるならそんなの二の次で。
兄はちゃんといい大学へ行っていい会社に入った。それで十分、だと思ってた。
その頃はまさかこんな住む世界の違う人たちと暮らすとは思ってなかったから。
「誰もユカりんが悪いなんて言ってないし」
「渉さん」
「それより今夜は僕たちが夕飯を作りますから」
「え?そうなんですか?」
「なあ渉」
「は!?何で俺が」
「ですから兄さんと2人でのんびりしていてください」
真守の一言で暗い空気がガラッとかわる。
飲みかけていたお茶をちょっと噴出す渉。そんな話聞いてない。
聞いていたとしても絶対に断わっている。料理なんて興味ないのに。
でもここで完全に否定したらまた悪い空気に戻る気がして。結局頷いた。
「かっこつけて作るとか言ったけどさ。どーすんの?俺なんもできねぇからな」
「資料はそこにある。それにしたがって作業する。以上だ」
「前から思ってたんだけど。あんた女は皆突っ込んだらアンアン言うと思ってるタイプ?」
「下品な話をしないでちゃんと資料を読め」
夕方に近づきそろそろ準備をしようと台所へやってきた真守と嫌々連れてこられた渉。
お前もつけろとエプロンを渡されたがそんなものは拒否して冷蔵庫を覗く。
百香里が普段からきっちり管理しているからか綺麗に整頓されて無駄がない。
「マニュアル人間はモテねぇって話しだよ」
「マニュアルも読めないような人間もどうかと思うがな」
「…で、何作る?あんまり面倒なのはご免なんだけど」
真守たちが料理をしているのが気になるらしく洗濯物をたたみながらそわそわ。
それが終わってもやっぱりチラチラと台所を見ている百香里。以前のカボチャを思い出し
怪我だけはしてほしくないと気が気でない。
「大丈夫やってユカリちゃん」
「…そう思いますけど、でも、怪我とか」
「ゆっくりしよ。せっかくの休みやし」
「総司さんは心配じゃないんですか?」
今まで料理なんかしたこともない良家の坊ちゃまが台所に立っているなんて。
何かあったら大変だし、色んな所からお怒りを受けそうで。
あまりにも頻繁に見に行くから総司によって部屋に連れてこられた百香里。
ベッドに座って不安げに彼を見つめると抱き寄せられ手を握られて。
「危なっかしいけども、弟らを信じたって」
「……はい」
「ユカリちゃんにとっても弟なんやし」
「えぇ。でも、お2人とも私よりずっと年上ですよ?」
「そやけど。あいつら俺よりずっとユカリちゃんのこと信じてるんやで?」
「それは総司さんの日ごろの行いじゃないでしょうか」
「あ。そんなん言うん?…その通りやけど」
目があって笑いあう。ここに家族なんてものはなかった。会話も交流も何も。
ただ会社から帰り寝るだけの場所。
それが結果はどうあれ力を合わせ料理をするまでに纏まったのだから。
そうさせた百香里の存在は大きい。本人はまったく意識していないけれど。
「そうだ。お義姉さんすごいんですよ、自分で何でも作っちゃって。帽子とか服とか鞄とか」
「器用なんやねぇ。ユカリちゃんもそういうの教えてもらうん?」
「もっと上手くなったらそうしようかと思ってます」
「ええね」
後ろから抱きしめられていた百香里だが突然振り返り総司の顔を見る。
いきなり覗き込まれてちょっと驚いた。
「総司さんと遊びたいな」
「え?遊ぶん?…ええけど、何で遊ぼか?」
「なんでも。総司さんが好きな遊びで」
「俺か。俺なあ。今はユカリちゃんと一緒におるんが一番楽しいなあ」
「じゃあ、20歳の頃は何して遊んでました?」
向きを変え総司の腰に手を回しギュッとくっ付いて尋ねる。
質問の半分は百香里の興味本位。あまり過去の話はしてくれないし、
自分もあんまり聞きたい話題ではないから極力避けてきた。けどこれは
最初の結婚をする前だし遊びと限定しているから大丈夫。だと思う。
「めっさ古い記憶やけど。そやなあ。パチンコも麻雀もそのずっと後からで。
カラオケとかはもっともっと後やったし。その外のギャンブルも…」
「総司さんってやっぱりお坊ちゃまなんですね」
将来を約束されそんなモノから隔離された世界の人。
「不満だらけやったけど、そうせなアカンと思い込もうとしてた頃やな」
「…長男ですしね」
ぎゅっと総司を抱きしめていた手を緩める。
自分の感情だけで決めてしまった結婚を少しだけ後悔した事がある。
それも総司の実家に行った時だった。自分と彼は違うとはっきり感じた。
もしこれが若い2人で親が健在だったら絶対に別れさせられてるパターン。
「いかんといて。何処も。…あかんよ?」
百香里の気持ちを察したのか慌てたように抱きしめてくる。
「ちょっと痛いです」
「あかんとこばっかやけど、それでも離さんから」
「じゃあどんな遊びがいいでしょう」
「ユカリちゃんは遊びたいん?」
「今しか出来ない事をやってみたいと思って。あ、どうしてもってわけじゃないんですけど」
百香里の言葉がグサリと胸に突き刺さる。20歳の女の子がしたいこと。
それを果たして40の自分がエスコート出来るのか。ついていけるのか。
理解してやれずに付いていけずに歳の差を悔やむ姿が浮かんで総司は怯む。
「そうなん。ええんやない?」
でも理解のない夫と思われたくないから否定的な事は言わない。
「どういうものがいいんでしょうね。渉さんなら分かるかな?」
「うん…」
「といっても総司さんと2人でじゃないと意味がないし。私も激しいのは駄目なんですけどね」
「俺、…上手くできへんかも。かっこわるいかも」
「かっこいい総司さんもそうでない総司さんも私は好き。一部の総司さんだけ好きなんて変でしょ?」
「…ユカリちゃん」
「私も何とかごまかそうと背伸びしちゃってますけど無知だし。この前なんか
別の階の奥さんたちの前で失敗しちゃって。駄目ですよね。しったかぶりは」
珍しく奥様たちに声をかけられて会話に入ったけれど、その中で当然のように出てきた単語。
てっきり野菜だと思って話していたら海外の有名な家具のブランド名だったというオチで。
大失敗してからは二度とその輪には呼ばれなくなった。その方が楽と言えば楽だけど。
「…堪忍な」
笑って済まそうとした百香里だが総司は真面目な顔をして抱きしめる。
何も知らない彼女をここに連れてきたのは自分だから。
そこで彼女がいやな目にあうなんてその時は考えもしなかった。愚かだ。
「パパはすぐ泣いちゃうから駄目ですねぇ。強くないと嫌だよね?」
「な、泣いてへんし!俺めっちゃ強いんやで!」
「ママより強い?」
「…ま、…ママには…勝てへん…」
「だめだねぇ」
落ち込むばかりの総司。百香里はおなかを撫でて子どもに話しかける。
もしかしたらおなかの中でこの会話を聞いているかもしれない。
子どもには嫌な思いをさせたくないのに。
「明日、2人で出来る遊びさがそか。デートや。デート」
「はい」
「肩書きとか長男とかそんなんええねん。ユカリちゃんとこの子と俺と」
「優しい弟たちがいれば。ですね」
「そうそう。そう」
百香里の言葉に深く頷く。それが面白くてひとしきり笑って。
「…総司さん」
もう一度百香里から体を密着させ見詰め合う。
「あ、あかんよそんな色っぽい目して」
「そろそろ我慢できないんじゃないですか?」
「…毎日できへん」
「けど、頑張ってるんですよね」
百香里の事を思って。その体には触れない。最低限で我慢。
「……ええの?」
「じゃなきゃ私から襲っちゃいますからね」
「そ、それもええなぁ」
「夕飯の事は考えなくてもいいし。総司さんが嫌じゃないな」
「あかん。今ので勃起した」
「ないですね。よし。ごめんね、ちょっと耳塞いでてね」
「ユカリちゃんから来てくれるとうれしいな…」
「もう。総司さんどういう想像を」
してるんですか、と視線を向けたらもう既にベッドに寝ている素早い旦那さま。
でもって早くおいでといわんばかりに手を広げている。これは行くしかない。
おなかを気遣いながらも彼の元へ行き。キスしようと顔を近づけ。
「…めっさ盛大に落としたな」
「私見てきますね」
「俺も行くわ」
たら台所あたりからガッシャーンという音。
軽くキスだけしてベッドから離れる。惜しいけど、明日もある。
続く