甘い
その日は朝からご機嫌斜めだった。社長の怠慢に怒る事はあるけれど、
温厚とまではいかないが基本的には落ち着いた何事にも動じない冷静な人物。
なのでこれは大変珍しい事である。
「干渉する気は無かったがもう我慢ならない。お前には徹底的に生活改善をしてもらうからな!」
「わざわざ会社で呼び出して何を言うかと思ったら。暇人だな。専務さんは」
「ふざけるな。お前が逃げたからだろう!あれほど司には気をつけろといったはずだ!」
「顔真っ赤だ。気持ち悪ぃ〜」
悪びれる様子も無い弟にさらに表情を強張らせ怒りを露にする真守。
他の社員たちはその空気に押されて近づくことも出来ない。
「そうか。給料のカットとボーナス無しにしてやってもいいが?」
「はあ!?ナンだよそれ。職権乱用だろ!」
「いいから。今日は1日ここで僕の補佐をすること。そして部屋の如何わしいものを全て処分すること」
「……」
「従えない場合は専務の権限において相応の処分を下す」
「最悪」
不愉快な顔をして悪態をつく渉。だが真守は意思を変えるつもりは無い。
この男が少しでも変わってくれるまでは。折れるわけにはいかないのだ。
父親も母親も少しのんびりしていて話しても流される可能性がある。
姪が自分の意思で歩くようになって文字が少しだけ読めるようになって
好奇心がいっぱいに膨れ上がって。危険も増して。
彼女の目に触れてはいけないものは全部処分したと思っていたのに。
「マモ。マモ」
「何だ司」
「ははちちってなに?」
「ハハチチ?何かな。漫画のキャラクターかな?」
「なんかね。ママのおっぱいよりおっきなおっぱいがドーン!って。で。男の人がすってたの」
「……」
「大人でも吸っていいんだって思ってママのおっぱい吸わせてって言ったら
司はもうあかちゃんじゃないでしょって。パパはどうやって吸ってるのかなぁ??」
「司。それ何処にあったんだ?」
「ユズの部屋」
「……そう。それで、渉は?」
「もういっちゃった」
本人はそんな事知るわけがないので何の疑問ももっていない様子だった。
だが彼女にそんなものを見せるなんて。故意でないにしろ犯罪に近い。
真守は怒り心頭で会社へ向かいさっそく専務の権限で彼を呼びつけたのだった。
「棚にしまったの司が勝手に見たんだろ。俺が見せたわけじゃないし」
「だから。そういう手の届く所に置くことがまずおかしいんだ」
「俺だって健全なふつーの男だし。エロいDVDくらい観る。…でも、司には悪かった自覚はある」
「あの子は何も知らない。知る必要の無い如何わしいものを持ち込むのは大人として間違っている」
「わかった。次からは鍵付きの箱でも買うわ。そんでいいだろ」
「ああ。そうして欲しい」
最初は怒りに任せて怒鳴ってしまったけれど、渉が言うようにあったからといって犯罪ではない。
自分たちは自分たちの生活リズムがある。それを無理にかえるのはストレス。けれど、
やはり司を大事にしてやりたい。彼女には真っ直ぐに育って欲しい。その思いは真守も渉も共通している。
兄を前に素直になれず皮肉を言いながらも反省はしているようだ。
「でさ。日にち決まったんだって?見合い」
「ああ。今週末だ」
「司には話したのか」
「今朝はそれ所じゃなかったからな。帰ったら頃合を見て話すつもりだ」
「そっか。ま、別にそれで結婚てなるわけじゃないしな」
「出来ればそうであると僕も楽でいいんだが」
兄には力説されたけれど。千陽にはやはり声はかけ辛い。
自分で理想の女性を見つけるというのがどうにも苦手。仕事を理由に探す事をあきらめそう。
だから見合いで決まってくれれば楽。女性に対して特にこだわりもない。相手が自分を嫌でなければ。
兄はそんな方法はアホだと言ったけれど。自分でも愚かしいと思うけれど。
「理想の女ってのはあくまで理想だからな。現実は妥協で溢れてる」
「そうだな」
そう、理想なんてありっこない。そんなものを目指すことこそアホだ。
渉は総司と違い真守の考えに反対はしなかった。あっさりした弟らしい。
「そんで。何したらいいわけ。専務のお手伝いなんだろ」
「素直だな。気持ち悪いくらい」
「ここなら煙草吸い放題だから」
「禁煙だ」
逃げるかと思われたが渉は結局最後まで専務室に残り仕事を手伝った。
文句は山のように言ったが手抜きやズルなどもせず淡々とこなして。
真守がこれなら自分が居なくても安心できる。そう思えるくらいに。
たぶんそんな気持ちを彼に言ったらそれこそ速攻で部屋を出て行くだろうが。
「何やお前等仲ええやんか」
夕方近く。ひょっこりを顔を出す社長。
「気持ち悪い事言うなよおっさん」
「渉。ここは会社だ、言葉は慎め」
「はいはい。スンマセン社長サマ」
「はははは。ええよ別に」
「末弟だからと甘い態度ばかりしては付け上がるだけですよ。もっと長兄の自覚を持ってください」
「分かった分かった。そんな怖い顔せんでもええやん」
渉が居た事を驚きながら応接用のソファに座る総司。
笑われて不愉快そうな渉。困った顔の真守。
「それで。何か」
「この書類届けにきただけや」
「そんな事を社長がする必要はないでしょう」
「ちょっと運動したかったんや。ずーっと座りっぱなしでしんどいやん」
「事務方はだいたい皆座ってるだろ。馬鹿にしてんのか」
「そんなツンツンせんでもええやん。あれか。反抗期か?」
「はあ?」
尚も笑いながら言ってくる総司に本気で睨みつける渉。
「今日はユカリちゃんお義母さんとこ行って遅い日やろ。ほんで司迎えにいくんや。
周りは若いお母さんばっかりやで、そこへくたびれた顔して行きたないやんかなあ?」
「そんなの気にしたってしょうがねえだろ。事実おっさんなんだから」
「俺はおっさんやけどさ。司からしたらパパやん。ええパパで居りたいやん」
「1回失敗したくせに」
「渉。言いすぎだ。兄さんも気にしても仕方ないでしょう、仕事に戻ってください。
さもないと定時にあがれなくなりますよ」
「せやった。ほな頑張りや」
「あんたにだけは言われたくねえわ」
苛々としながら返事する渉に最後まで総司は笑っていて「反抗期やなぁ」と廊下でも言っていた。
恥かしいようなムカツクような。長兄はそういう男だ。昔はそんな男じゃなかったと思ったけれど。
あまり思い出せなくなっている。昔の事だからか、それとも昔なんてどうでもいいと思っているからか。
とにかく、苦々しい思いをしながらもその日の仕事を片付ける。真守に付き合って残業もした。
それが渉なりの反省の気持ちなのだと真守は言葉にはしないが理解している。
「ねえパパ」
「何や」
少し遅れながらも司の通う幼稚園へお迎えに行く総司。殆ど園児は居らず、
司は先生と一緒に遊んでいた。駆け寄って先生に挨拶をして車まで抱っこして歩く。
父親に抱っこされて嬉しそうにしていた司だがふと思い出したように父に問いかける。
「ママのおっぱいすいたい?」
「せやねえ」
「でもあかちゃんじゃないでしょって言われるでしょ?」
「司言われたんか?」
「言われた。…ママのおっぱいほしいな」
「ママが居らんで寂しいんやな。もうちょいしたら帰ってくるで辛抱してな」
「…ハハチチ」
「ん?何やって?」
「あ。お腹なったよ!ぐーって!」
「聞こえたわ。パパも鳴りそうや」
家に帰り百香里を待っていると玄関の開く音。司は母だと駆け出していく。
戻ってきた時には司は手に大きな袋を持っていた。後から百香里。
母親が持っていけとくれた夕飯のおかず。
「どうかしました?」
「ん。いや。今日も可愛いなあ思って」
「それ朝も言いましたよ」
「ええんや。なんぼでも言いたい」
「あれ。総司さんと司だけですか?渉さんは今日は梨香さんの所?」
「あいつは真守と一緒やろ。今日は2人で仕事しててん」
「そうなんですか。珍しい」
家族水入らずの空間も珍しい。司はそれよりも早くご飯が食べたそう。
だけど真守と渉が揃わないと食べないと言うあたり百香里に似たようだ。
椅子に座って足をぶらぶらさせて目の前の美味しそうなコロッケを見つめている。
「あとな。おっぱい吸わせてほしいんやけど」
「何ですかいきなり。そういうのは寝室で言ってください」
「怒らんといて。俺やなくて司にや」
「何で司に?あの子はもう」
「ママに甘えたいんや。なあ。ええやろ?ちょっとだけ」
「分かりました。今日お風呂入るときにでも。でもちょっとだけですからね。くすぐったいから」
「堪忍な」
「とっても甘えん坊なのはパパに似たんですかね」
「かもしれへん」
なんて会話をしている間に真守たちが帰ってきて司は嬉しそうにお出迎え。
彼らが来たことによりご飯が食べられるから喜びようが段違い。
皆そろっての夕飯を終えて司もお手伝いして後片づけをして。
「ママのおっぱい!」
「でもね司。ママもうおっぱい出ないの。それでもいいの?」
「うん」
「じゃあ、ちょっとだけね」
一緒に風呂に入り娘を膝に座らせて少しおっぱいをあげてみる。
もう授乳は終わったのに。専ら夫に吸われるばかりだったのに。
改めて子どもに吸われて変な感じがした。こうして育てたんだと思い出す。
「ほら。もういいでしょ。お風呂入って」
「うん」
司も満足したようだし百香里も少し前を思い出してほろっと来た。
風呂からあがり司は渉の部屋に行くと去ってしまった。
髪を乾かしてないがきっと彼が乾かしてくれるだろう。何時もそうだから。
「噛んだ跡残ってるやん」
「今はちゃんと歯がありますからね」
「俺かて噛んだことないのに」
百香里が寝室に入るなりベッドに寝かされてパジャマを脱がされる。自分の場合は
髪をちゃんと乾かす時間は無さそうだ。組み敷かれ総司に見つめられると体が熱くなる。
彼の視線の先は胸。司が甘えて噛んだ跡が薄っすらと白い胸に残っていた。
「総司さんに噛まれたら痛すぎます。駄目ですよ」
「そんな強噛まへんけど。せやね。可愛い胸傷つけたらあかん」
「…ん」
顔を近づけ優しく舌先で胸の先を撫でる。優しく包み込む舌は暖かくこそばゆく。
百香里は身を捩るが彼の手が腰を捉えて離してくれない。
足をジタバタさせていると総司の足が間に入ってきて絡みつく。
「今からは俺が甘える時間」
「私は駄目なんですか?」
「なんぼでも甘えて」
「はい。あ。でもあんまり長いのは嫌です」
「そんなん言うん?ユカリちゃんの意地悪。でもええのそこも可愛い」
百香里が密かに大好きな懐っこい笑みを間近に見せられて頬を赤らめている所へキスされて。
きっと今夜も遅くまで寝れないんだろうなと覚悟する。でもそれを強く止める気は無い。
どれだけ朝苦労すると分かっていても。やっぱり旦那さまには応えたいと思ってしまうから。
「ママ。マモおみあいするの」
「みたいね」
「おみあいってケッコンする人とあうんでしょ?…マモ。いなくなっちゃうの?」
想像した通り気だるい朝を迎えたがそれでも朝食の準備や洗濯は怠れない。
欠伸をしながらも台所に立って準備していると司が起きてきて百香里のもとへ来た。
真守よりも早いなんて珍しい。そしてあまり眠れていない顔をしている。
「居なくなる訳じゃなくて。新しいお家に行くの」
「新しいおうち」
「すぐ会いに来てくれるから。司も遊びにいけるから寂しくはないでしょう?」
「…そうなのかな。まだわかんない」
不安げに母親の足にくっ付いて眠そうにしている。お風呂からあがった後、
真守から見合いの話を聞いてそれで心配になって眠れなかったのだろう。
百香里は手を止めて娘を抱っこして彼女の部屋へ連れて行く。
抱っこされて安心してしまったのかうとうとしていた司はベッドに入るなり眠った。
「おはようございます義姉さん」
「おはようございます。あの。…昨日司にお見合いのお話ししました?」
「ええ。渉の部屋へ行く途中だったみたいですが、呼び止めて。それが何か」
「いえ。ちょっと気になっちゃったみたいで。でも心配しないでくださいね」
「泣いたりしませんでしたか?」
「大丈夫です」
台所に戻ってくると新聞紙を持って入ってくる真守。司の話をされて心配そうにしている。
そうなるかもしれないという不安が元からあったからなお更。でも話した時は普通だった。
もしかしたら彼女なりに真守に気を使ったのかもしれないけれど。
「すみません。でも、このままでも居られないと思っています」
「司に付き合う事はないです。あの子甘えん坊だから」
「僕もすっかり今の生活に甘えてしまって」
「お見合い…やっぱりなさるんですね」
「はい。できれはそれで決まればいいと思っています」
「そうですか」
千陽はどう思っているのだろう。百香里はそれを真っ先に思った。
「でも僕は不器用なので。どうなるかな。心配です」
「ふふ。予習でもしますか?」
「そうですね。見合いの練習でもしておこうかな」
「え」
「冗談です」
続く