疲労困憊
「眠れないの。えほん読んで」
「おいで」
何回も寝返りをうってヒツジを数えても目を必死に閉じてみてもやっぱり駄目。
諦めて枕を手に部屋を出ると長い廊下を歩いていってドアをノックする。
どうぞ、と声がしてあけてみると部屋の主はベッドに寝転んでいた。
許しを得て司は渉のベッドにもぐりこむ。自分の枕を彼のものの隣に置いて。
「明日えんそくだからママが早く寝なさいって。でもね。そわそわしてね」
「そんだけ期待してるんだろ。よくある事だ。ならお前がすぐ寝ちまうやつにするか」
「えいごのだ」
「お前面白いくらい速攻で寝るからな。気持ちは分かるけど」
情操教育の一環とかで試しに真守が買ってきたのは物語が英語で書かれた絵本。
絵は可愛くて司も気に入っているのだが如何せん呪文のような言葉が眠気を誘う。
シリーズで買って来ているので渉の部屋にも置いてあり今回選んだのはシンデレラ。
「ユズのえいご早くてわかんない」
「早くねえよこんなもんだよ。ほら、ちゃんと肩まで布団入れ」
「明日楽しみだな」
「無茶して怪我はすんなよ。あとママから離れるなよ」
「わかってる。ママにもパパにもマモにも言われたもん」
布団に入ってもまだ遠足へのワクワクが止まらない様子の司だったが
渉が絵本を開いて読み始めると3分もしないうちに眠ってしまった。
もう少しくらいは頑張れよと苦笑しながらも電気を消して彼も目を閉じた。
「今日は僕が引き受けます。兄さんは遠足に集中してください」
「堪忍な」
翌朝早く。休日でも平日でも最後に起きてくる総司が真守より早く起きて準備中。
ソファには大中小それぞれ3人分のカバンが置いてあり水筒もあった。
台所では百香里が弁当の詰め込み作業に追われている。
「司や義姉さんに嫌われたくはないですから」
「はは。せやね。…今日は社長やなくて父親で通さしてもらうわ」
休日でも平気で呼び出しがかかる社長業。午前だけの時もあれば夜まで居ない日もたまにある。
その度に司はつまらなそうな顔をして百香里も表立っていう事はないけれど不満なはずだ。
それを我慢してもらってきて今回の家族のイベント。
仕事で抜けるなんて父親としてはそんな事はしたくない。自分はあの人とは違うのだ。
「司は?まだ寝てるんですか」
「お前ん所で寝てたんとちゃうんか?」
「僕の所へは来てません」
「俺んとこだよ」
「渉」
総司と真守が振り返ると司を抱っこして部屋に入ってくる渉。
まだ眠いようで大あくびをしていて司にいたってはまだ寝ている。
「さっき起きてきてママの所つれってくれっていうからさ。でも寝ちまったな」
「ソファに寝かしたってくれるか」
「毛布を持ってきましょう」
そっと司を寝かせると真守がもってきた毛布をかけてやる。まだ眠い顔。
昨日は絵本の力で速攻で眠ってしまったとはいえそれまでが結構遅かった。
こうなるだろうと何となくは思っていたけど。ギリギリまで寝かせてやろう。
「どうしたんですか3人ともジッとしちゃって」
「司が寝てしもて」
「あ。ほんとだ。起きなさい司、朝ごはん食べないと間に合わないんだから」
「…ママ」
「途中でお腹空いたってなってもお昼まで食べる時間ないからね」
「はぁい」
弁当と朝食の準備を終えた百香里が司を起こし皆そろっての朝食。
司はまだ眠そうだったがそれでも何とか食べ終えた。
あとはパパと一緒に顔を洗って遠足用の服に着替えて。
「お母さんのいう事を聞いて気をつけて行くんだぞ」
「うん。マモもユズもおるすばんおねがいします」
叔父さんたちに見送られ一家は遠足へと向かった。
「お留守番ね」
「予定があるなら気にせず行けばいい、僕が居るから」
「あぁ。ま、適当にやるわ」
怖いくらいに静まり返る廊下。それはそれで悪くないけれど。
真守は自分の部屋に戻り渉も部屋へと向かって去っていく。
彼の場合いつの間にか居なくなっているのだろうが。
「パパ。トモ君と一緒にいってもいい?」
「トモ君かぁトモ君なあ」
「あかんの?」
「あかん事ないけどどうせやしパパと手つないで行こやぁ。な?な?」
「パパにはママいるよ」
「せやけどパパ寂しいやんかぁ」
「いいけどパパとママの傍離れるのは駄目よ。守れる?」
「うん」
「じゃあ行ってらっしゃい。トモ君のパパとママにもちゃんとご挨拶してね」
「はーい!」
集合場所である公園には園児とその両親でいっぱい。まだ出発には時間があるので
それぞれ仲のいい子たちが集まって喋っていたり親同士交流していたり忙しい。
司は迷わずトモ君の下へ行こうとする。それが面白くない総司だが百香里には勝てず。
合流し楽しそうに喋っている2人はほのぼのとして可愛らしい限りだ。
「何やあの坊主…」
「総司さん」
「な、なんや?俺何も言うてへんし」
「もう」
総司にはそうは見えないらしいが。百香里は苦笑しつつトモ君の両親に挨拶をする。
「若い親ばっかやなあ」
「園児の親ですもん」
「せやけどさ」
「大丈夫ですよ。総司さんは上に立派な学生さんの娘さんがいらっしゃるから」
「そ、そんな言い方せんでもえんとちゃうか」
「総司さん気にしてるみたいだから」
「ユカリちゃんさえ嫌やなかったらえんやけどさ」
「私は何も気にしてませんよ。こうしてパパが一緒に居てくれるだけで嬉しいです」
百香里が父親と遊べたのはほんの僅かな期間だけだ。
それも彼女が記憶に残せるくらいの歳になるかならないかくらいの時。
父親の不在がどれほど寂しいものか父を疎ましく思ってきた総司には想像もつかない。
「……」
総司は声のトーンが落ちて隣に居る百香里の手をギュッと握った。
「どうしたんですか?」
「この場に居れてよかった思ってるだけや」
「総司さん」
「天気もええし後は筋肉痛にならんようにせなね」
「はい」
家族の思い出は大事だ。自分たちにとっても司にとっても。
定時となり先生の声がして説明を聞く。司はトモ君と仲良く手を繋ぎ
それを見て総司がまた怒り出すが百香里がなだめ歩き始める。
コースはそれほど険しくはなかったが距離はそこそこあり。
「明日休んでもええかな」
「千陽ちゃんに怒られちゃうよパパ」
「ほな司かわりに行ってや」
「えーむずかしいのわかんないもんー」
全工程を終えて帰る頃には総司はヘトヘトで部屋につくなりソファに倒れた。
パパを気遣うふりしてパパで遊んでいるようにも見える司。
「総司さん大丈夫ですか?お茶どうぞ」
「パパのめる?」
「あかんわもうパパはお年頃やねん」
「こら。司もからかわないの。おみやげあるんでしょう?真守さんや渉さんに渡して来たら?」
「そうする!」
リュックから土産の花を持って叔父さんたちに会いに行く司。
百香里は寝転がったままの総司を気遣うように背中をさする。
「ええんや。俺はやっぱりおっさんやで」
「今日はありがとうございます。司もすごく喜んでました。私も嬉しいです」
「それやったらよかったわ」
「…総司さんだいすき」
総司のオデコにそっとキスする。
「ああ。嬉しい。嬉しいけど今はできへんの。なぜなら辛すぎるから」
「ふふ。じゃあここでゆっくりしててください。私洗濯物とか夕飯の準備とかしちゃいますから」
「あーもーなんでそんな若いん?一緒に疲れきって倒れこもぉや」
「私まで倒れたら誰が夕飯を作るんですか。ほら。手を離す」
「はぁい」
「もう1回キスしますね」
「今度は口やで」
二度目は唇にしっかりとキス。苦しそうにしながらもどこか満足そうな夫の顔。
百香里は微笑み起き上がって洗濯物を取り込み夕飯の準備にとりかかる。
どうやら会社からの呼び出しは無かったらしく真守は部屋に居て、
珍しい事に渉も部屋でゴロゴロしていた。てっきり梨香の所かパチンコかと思ったが。
もしかして心配してくれていたのだろうか。
「花か」
「うん。きれいだよ」
「枯れちまう前に押し花にでもすっかな」
「おしばなー?」
渉の部屋に行き彼に土産の花を渡す。綺麗に咲いていたから数本持って来た。
真守の分はさっき渡してきて花瓶を探しに部屋を出て行ってしまった。
ので次は渉の部屋へ。彼も喜んでくれたがちょっと困ったような苦笑いだった。
「楽しかったか?いっぱい思い出できたか?」
「うん!パパがねもうつかれた帰りたいって泣いてた」
「おっさんだからしゃーないわな」
「今度はユズもマモも一緒にいこうね」
「俺かぁ?延々歩くとか嫌いなんだよな。ドライブとかならいいけど」
「どらいぶ」
「まあ、気が向いたら付き合ってやるよ」
「うん」
雑談を交えながら今日の感想を聞いていると下から百香里の声。どうやら夕飯の準備が出来たらしい。
司はお腹が空いているようで嬉しそうにおりていく。渉は花を押し花にしてから階段を下りた。
ソファに寝転がっている兄を見て一瞬驚いたけれど、すぐ呆れたような顔になり席についた。
真守も後から来て同じように驚きながらも突っ込みを入れる事なくすんなり席につく。
最後に総司が司に引っ張られて着席すれば松前家の夕食の始まり。話題はもちろん遠足だった。
「はぁああああ…ほんま風呂はええな生き返るぅ」
「総司さんほんとにおじさんみたいですよ」
「もうええねん。俺はおじさんやもん」
食後もダルそうにしている総司。よほど辛かったのだろうとお風呂の温度を少し熱めに設定して
1番に入ることにした。もちろん百香里も一緒。司はまだ喋りたいようで真守と渉とリビング。
体を洗って湯船に深く浸かる総司。余裕ある広い風呂でよかったと今更ながら思う。
百香里は笑いながら髪を洗って彼の膝に座った。
「私も今日は疲れました。司のペースだと本当についていくのがやっとです」
「俺は最初から付いて行かれへんかったけどね」
「まだ若いつもりでいたんですけど。やっぱり私も歳ですね」
「それ40過ぎのおっさんに言わんといて。泣けるやんか」
「いいですよ。泣いた総司さんも可愛くて好き」
「あんまり嬉しい言葉とちゃうなぁ…」
「ふふ。じゃあ。いっぱいキスしますから機嫌直してください、は?」
「それはええね。上機嫌や」
百香里は振り返り総司の首に手を回すと何度も小刻みに優しいキスをする。
何時もならここで彼の手が体を弄ってきてえっちな展開になるのだが、
疲れているのは本当らしくただ抱きしめてくれるだけで終わった。
風呂から出ると多少は回復したようだがまだ辛そうで水分補給したらすぐ寝室。
「ママ。パパだいじょうぶ?」
その様子を見て司は流石に心配になったのか百香里に駆け寄ってきて尋ねてきた。
「大丈夫。明日には元気になってるからね」
「パパ…お休みしてたほうがよかったかな」
「そんな事ないから。司と一緒に行けてよかったって言ってたから」
「パパにお休みなさい言ってくる!」
「そうして」
元気よく階段を駆け上がっていく司。
「兄さん大丈夫ですか?だいぶ疲れているようでしたけど」
「真守さんまで。大丈夫ですって」
先ほどまで司と喋っていてリビングに残っていた真守と渉。
「筋肉痛で入院なんてな」
「渉。…すいません」
「いえ。確かに筋肉痛はあるかも。私も危ないですし」
馬鹿にしたような笑いをする渉に怒る真守だが百香里は気にせず笑い返す。
歳を取ると筋肉痛は後から来るらしいから。今こうして何処も悪くないのが怖い。
総司も既に辛そうだけど明日あたり来るかもしれない。
「ゆっくり休んでください」
「はい。今日は協力してもらってありがとうございます」
「僕たちは何も」
「総司さん忙しいんですよね。でも時間を作ってもらって。本当に感謝してます」
彼らも総司も何も言ってくれないけどたぶん気を使ってくれたのだろう。
そこは流石に察する百香里。
「父親が娘のイベントでんのは当然だろ。かしこまって言われるもんじゃねえよ」
「渉さん」
「そうですよ。だいたい今日は休日です、何の支障もない」
「今度は家族皆でハイキング行きましょう」
「ダリい」
「渉。いつか、必ず」
「はい。それではお休みなさい」
軽く頭を下げて百香里は総司の元へ向かった。
「家族皆、か」
「そういう括りは嫌か?」
「別に。好きに呼べばいいんじゃねえの」
「素直になればいいのに」
「俺は何時でも素直に生きてますよ専務殿」
「そうか。そうだったな」
嫌そうな顔をして去っていく渉を苦笑しながら見送る真守。
そんな彼もコーヒーを淹れて部屋に戻る。司からもらったコーヒーカップ。
自分だけずるいと散々言われて弟の前では使えなくなり会社専用。
可愛らしい絵柄で他の社員は驚いていたが本人はとても気に入っている。
「司も疲れてたんだ」
やけに静かだと思った。寝室に入ると既に眠っている総司とその隣に寝ている司。
百香里は眠る準備をゆっくりとしてから部屋の電気を消して司を真ん中にして眠る。
時折寝返りをうったりして布団からはみ出る夫や娘に気遣いながら。
「嫌や。俺は行かへん」
「そうくると思ってました。お辛いのは分かりますがそこは切り替えていただきますよ社長」
「千陽ちゃん仕事熱心なんは分かるけど俺まだパジャマ姿やで?ベッドの中やで?セクハラやわ」
「呆れた。そんな格好いつまでもしてらっしゃる貴方の方がよっぽどセクハラのパワハラでしょう!」
「…ええねん。俺は出来損ないの社長やねん。それでええねん。やから寝かして」
「駄目です」
グダグダとするのは毎度の事。それも最近は”出来るパパ”を演出するため控えめになっていたのに。
遠足に参加して体が疲れているのは理解できる。でもだからって会社を休んでいいわけが無い。
弟でも妻でも彼を動かせないと来たらもう後は自分だけ。秘書は覚悟を決めて寝室に乗り込んだ。
説得を試みるが今日はいつにもましてグズる社長。それくらい疲れているのだろうか。何時ものサボり癖か。
「今日くらい多めにみてぇな」
「駄目です。10分で準備してください」
「おにぃ」
「社長!それでも松前家の当主なんですか!しっかりしてください!」
「…そんなん好きでなったんとちゃうもん」
「小学生以下の言い訳ですね」
「小学生でええわ」
「社長!」
だんだん苛々してきた。その辺の硬いもので一発殴ってやりたい衝動。
「パパごめんなさい」
「え?どうしたの司ちゃん」
殺伐としてきた空気の中何時の間に居たのか千陽の隣に立つ司。
「何で謝るんや?」
「司が遠足なんか言うから。パパ辛いのに。ごめんなさい」
「そ、そんなん思ってへんよ。行けてめっさ嬉しかったし楽しかった」
「でもパパ司のせいで会社行けないんだもんね…司が言わなかったらよかった」
「司ちゃんの所為じゃないから。ね?そんな落ち込まないで」
「…だって…パパ…辛そう…なんだもん」
辛そうな言い方をして仕舞いには俯いてしまう。そんな気を使うことないのに。
千陽はオロオロしてベッドに潜り込んで顔を出さなかった総司も心配そうに顔を出す。
「泣かないで司ちゃん」
「ま、まて!待て!行く!10分で用意する!せやから司はなんも気にせんでええからな!」
参ったといわんばかりにベッドから飛び起きて娘を抱きしめた。
「ほんと?じゃあ10ぷんだよーはやくはやくー」
「……つ、司?」
「演技…?…で、出来るっ」
ケロっとしている司。ソレを見て大人2人は謀られたと気づく。だが、もうここまで出てしまったら
ベッドに戻るなんて出来ない。司の勝利。総司は苦笑いしながらも顔を洗い身だしなみを整え
百香里にキスして千陽とともに会社へ。弟たちもまさか総司が出てくるとは思わなかったようで
驚きながらもそれに続いて家を出て行った。
「司どうやったの?ママが起こしてもパパ起きなかったのに」
残った百香里は娘に聞いてみる。どうやったのか。
「あいのちからです」
「愛の力。そ、そう。…ママ愛が足りなかったのかな」
「ママ。ようちえんおくれるー」
「あ。いけない。司忘れ物ないかチェックしておいて」
「はーい」
昨日の疲労を残しつつも慌しく1日は始まった。
「あーしんど。社長が立ち仕事やったら俺もうやめてるわ」
「何を仰ってるんですか。そんな理由で辞められたら困ります」
「後継者は居るんやし俺は何時でも隠居したい。ちゅうかさして」
「いくらなんでも司ちゃんは若すぎでしょう」
社長室は何度目かの憂鬱なため息にすっかり空気が悪くなっていた。
それを咎めようとしてもあまり話を聞いていない社長。危なっかしい台詞まで飛び出した。
聞いているとこちらまで疲れてくるから困る。秘書として過激な発言はさけたいところ。
「真守もおるし。渉もおるやん。千陽ちゃん社長夫人なれるかもしれへんで」
「冗談でもそんな話はしないでください」
「あ。真守」
「専務」
でもつい口から出そうになっている所で真守が書類を持って入ってきた。
「自覚を持ってください。貴方は松前家の長男でしょう」
「そんな堅苦しい事言わんでもええがな」
「社長がしっかりしてくださらないと困ります」
「はいはい」
「今僕の所に連絡がありました。1階受付に社長の娘さんが来ているそうです」
「司が?」
「いえ。1人で来ているそうですから司ではないでしょう」
「唯か」
来るなんて電話もメールもなかったのに。
平日に行き成り来るなんて何かあったのだろうとは思うけれど。
「どうします。社内では何かと目立ちますから外に出られたほうがよろしいかと思いますが」
「せやね。ちょっと出てくるわ。千陽ちゃん、悪いけど頼むわ」
「社長困りますそんな勝手に」
「僕が対応します。彼女に勝手にうろつかれては兄さんが安定しない。それは困るので」
「専務」
「15分です」
「わかった。それくらいで済ます」
総司は上着を掴み社長室を後にする。
続く