悩む 2
「百香里」
「……」
「百香里」
最初は無視していた。変な人に付きまとわれたと思った。
買い忘れがあって司を渉に任せてマンションを出てすぐくらいのこと。夕暮れの道。
後をつけるように近づいてくる足音に最初はちょっと不安だった百香里だが。
ついに名前を呼ばれ振り返った声の主を見て恐怖は消えた。
「…あ」
「やっぱり百香里だ。聞こえてないのかと思った。それとも無視してた?」
「そういうんじゃないけど」
そこに立っていたのは元彼。何でまた会ってしまったんだろう。
彼とはあの同窓会以来何もなかったのに。連絡もしなかった、来なかった。
どうしたものかと複雑な表情をする百香里に相手の男は苦笑いをした。
聞けなかったけれど彼は親の言うとおりに順調に医大生になっているのだろうか。
「お前はもう結婚してるんだし、モトカレなんて今更気まずいよな」
「そんなことないよ。もう、過去の話しだから」
「過去、か」
アナタとはもう関係ない。相手に発しているのにまるで自分に言い聞かせているみたい。
だけどここははっきり言わないと駄目だと思った。同窓会で言った彼の言葉。
過去に踏ん切りをつけるためにも。なんだかんだ言っていつの間にか歩調を合わせ一緒に歩いている。
あの頃みたいに。青春の思い出として懐かしいけれどそれに浸ってはいけない気がする。
「お医者さんになる予定はどう」
「なんだよ嫌味っぽいな。昔はそんな女じゃなかったのにさ」
「そうかな」
警戒しているのかどうしても棘のあるいい方になる百香里。
でも相手は怒る事なくどこまでも落ち着いた喋り方をする。
あの頃も優しかったけれど、それとはまた違う。
「俺は医者にはならないよ。それは親が勝手に言ってるだけだから」
「……」
「でもあの時の俺は親に逆らえなかった。ずっと言いなりになってた。
お前の手を引いて飛び出す勇気がなかったんだよな。お前が家の所為で身を引いても」
「そう」
「もしもの話なんてしてもしょうがないけどさ。…俺に勇気があったら、お前と別れずにすんだのにな」
「今更だよ。ほんと」
「そうだな」
もし彼が強く百香里を守ってくれたら。そうしたら今どうなっていただろう。
百香里も少しだけそんな意味のない事を考えてしまってすぐに打ち消す。
後はお互いに苦笑する。それしか思い浮かばなかった。
「…じゃあ、私はこっちだから」
分岐点に到着。ホッとするような少し寂しいような複雑な心境。
それでも百香里は先先歩き出す。振り返ったりしない。
「お前変わったよな」
でも呼び止められるように言葉を投げかけられ振り返る。
「え?」
「変わった」
「そうかな」
「じゃあな。また、なんて言うと誤解されそうだから。さよなら」
「うん。さよなら」
手を振り別の方へ歩いている彼。そんな気になる言い方をするものだから
買い物を終えて家に戻っても気になって。風呂上りに何気なく鏡を見てみる。
特に変わった様子のない普通の顔。別段可愛い訳でも美人でもない平凡な顔。
お肌の手入れは必要だからと義姉に進められた化粧品の試供品をぬってもいまいち実感が無い。
「ユカリちゃん何してるん?」
「私、何処が変わったかわかります?」
「え。…え!?…えーっ……髪の毛切った?」
「切ってません」
「化粧水替えた」
「替えてません」
「待ってや。俺に時間を。……えーっ」
百香里に甘えようと近づいたらいきなり質問された。でも何処が違うのか不明。
彼女を見ているのに。違いが分からない。悩んでいたらもういいですとアッサリ言われて。
彼女は司の様子を確認してベッドへ。寝る準備をする妻に返事が出来なかった夫は焦る。
こういうのはきっと夫婦にとって大事なコミュニケーションだ。
「あ。総司さん散髪しました?」
「え?あ、うん。一昨日…」
「私も髪切ろうかなぁ」
「…ユカリちゃん?」
様子を伺うように彼女の隣に座る。百香里は眠そうにしているが此方を見た。
「お休みなさい…」
「…うん」
そしてあっさりと眠りにつく。最近寝付くのが早くなった気がする。もとからあまり夜更かしをしない子。
子育てに疲れているのだろうと察しはつく。だから無理に起こしてえっちなことをしようなんて思わない。
総司は電気を消して百香里を抱き寄せ自分も目を閉じる。すぐには眠れないけれど。
夜中でもお構いなしに司に起こされるけれど。それももう慣れた。
「あかん。俺はおっさん化しとるっ」
「いや、だいぶ昔からおっさんだったろ」
「ユカリちゃんの変化に気づけへんとかあかんやろ。ユカリちゃんもガッカリしたはずや!」
「40すぎたおっさんが今更なんだよ鬱陶しい。あっちいけ」
昼でもないのに堂々と喫煙ルームで一服中の渉。
司に気遣って家では極力吸わないでいるからこの時間がとても大事だった。
なのに隣にはさっきから煩い社長が。吸わないから出て行けと言うが聞いてない。
「ユカリちゃんどこそ変わったか?このままやと嫌われる」
「鬱陶しい。うざい。消えろ」
「司連れて出てったらどうしたら」
「……、何処も変わってねえよ」
「そう…なんか?」
「見た目は変わってねえよ。もっと金かけりゃいいのにさ。貧乏根性ってやつ?
もし変わってる所があるとしたら中身じゃねえのか。母親になったんだしさ」
「なるほど。そうか。…それやったら見ただけやとわからんもんな」
毎日見ている彼女の変化。渉の説でどうやら納得した様子の総司。
何故百香里がそんな質問をしたのかは分からないけれど。
母親になったことで心の変化があったら本人が戸惑うのはありえる。
「そんなヤバいのかあんたら」
「そやない。俺がちょっと心配なだけや」
「いい歳してかっこ悪い」
「いい歳やから不安にもなる」
「泣かせんなよ」
「分かってる」
淡々と話をして黙り込む兄弟。
百香里を想い悩む総司。そんな兄にお構いなく煙草をふかす渉。
そのまま秘書が引っ張りに来るまで黙ったまま過ごした。不気味な空気。
渉も真守にサボるなと説教をされて、今回は珍しく反論せず持ち場に戻った。
「太ってないし肌荒れもないし…総司さんが気にしてないならいいかな」
司を母に任せ街に出た百香里。ふと目についた窓ガラスにうつる自分。
皆居なくなってからこっそり体重計に乗ったり顔をマジマジと見つめたりした。
でも何処も変わってないようにみえる。総司も特に変わったとは言わなかった。
自分だから気づいてないだけかもしれないけれど。
「百香里さん」
「千陽さん?」
珍しい人に出くわす。まだ仕事中のはずだが間違いなく千陽。
「お買い物ですか?」
「はい。千陽さんは?」
「出先から会社に戻る所です。専務もいらっしゃいますよ」
「真守さんも?」
「ええ。司ちゃんに似合いそうな服を見つけて。買うべきか買わざるべきかで悩んでらっしゃいます」
「……」
真面目な顔をして子ども用の服売り場で悩む真守を想像した。
千陽は何も言わないけれど内心呆れているに違いない。
「義姉さん?どうしてここに?」
そんな中で戻ってくる真守。手には何も持っていないから服は買わなかったのだろう。
「買い物の途中で」
「司は?」
「母に預けました」
「そうですか。たまには1人で行くのもいいでしょう」
「専務、そろそろお時間が」
「それでは僕はこれで」
「はい」
2人と別れ歩き出す百香里。人が忙しなく働く姿を見るとソワソワしてしまう。
自分もちょっと前まではそうだった。今はすっかり妻であり母親になっている。
最初はあんなに違和感があったのに。今はそれもなりを潜めていて自然だ。
それでなんとなく彼の言っていた意味がわかったような気がした。
「あれ。ユカりん髪切ったんだ」
「はい。どうでしょう」
「いいんじゃない。もっと派手に髪染めたらよかったのにさ」
「今度試してみます」
夕方。渉が帰ると何時ものように夕飯の準備に勤しむ百香里の姿。
総司の言葉もあってなんとなく気になっていたけれど。
髪を切った以外なんら変化のない何時もの義姉がいるだけだ。
安心しつつベビーベッドで寝ている司に挨拶する。
「よし。今日も英語の勉強だ」
時計を確認すると抱っこしてテレビをつける。英語の勉強。といっても子ども向けだから
小難しいことはなくてリズムの良い歌がよくながれてきて百香里もすっかり覚えた。
司は渉の膝に座ってボーっと画面を眺めている。特に泣いたりしない。
「渉さんは海外よく行くんですか?」
「普通くらい。俺は家にいるのが楽で好きだけど梨香が行きたがるからさ」
「優しいんですね」
「司も連れてってやるからな」
「私、海外って不安で」
「なんとかなるって。ほら、ユカりんも一緒に勉強したら」
「は、はい」
司が旅行できるくらい成長したら色んな所に連れて行ってくれると嬉しそうに言う渉。
普段はそんな風に見えないのだが、思いのほか面倒見がいいのかなと思う。
兄たちの事も文句を言いながら結局はいう事を聞いているし。それは百香里でも同じ。
やっぱり松前家の人は優しい。抱っこした司をあやす顔は何処か幼くも見える。
「ユカリちゃんただいまー!」
「ただいま帰りました」
何時もより少し遅い時間に帰ってくる総司。そして逆に早い真守。
めずらしい取り合わせ。
「お帰りなさい。今日は一緒に帰ってきたんですね」
「めずらしい事もあるんだな」
「そやねん。珍しいやろ」
「威張る事ではないと思いますよ兄さん」
2人は百香里に顔を見せるといったん部屋に戻り部屋着に着替える。
戻ってくるなり真守は司の傍に行き。総司は百香里の傍へ。
「ユカリちゃん髪きったん?めっちゃ可愛い」
「そうですか?良かった」
「そうか。昼間1人だったのは散髪するために」
「それもあります。…ちょと考え事してたから」
「考え事?」
「あ。と。夕飯のメニューとか」
咄嗟にごまかす。総司に相談するほどの事ではないから。
下手に元彼の名を出して不愉快な気持ちにはさせたくない。
夕飯の準備を整え4人での食事。司はまた眠ってしまった。
「ユカリちゃん風呂はいろ」
「準備して行きますから先に入っててください」
「ええよ俺が準備する」
大人たちが食べた後は司の番。おなかが空いたと泣いてきた彼女に授乳する。
義弟たちは気を使ってかそれぞれの部屋に戻っていった。
総司はそんな妻の頬にキスをして準備を整えると先に風呂場に向かう。
「すみません遅くなって」
「ええよ。司は?」
「また寝ちゃいました。真守さんに見てもらってます」
少しおくれて百香里も風呂場へ。服を脱いで中へ入ると同時に湯船につかっていた総司が出て
椅子に座る彼の膝に百香里が座る形になった。湯につかっていただけに暖かい彼の体。
百香里は夫にもたれかかりギュッと抱きつく。
「ならええか。体洗いっこするで」
「……」
「いやか?」
「…総司さん。…私、…総司さんにずっと好きでいてほしい」
「何言うてんの。ずっと好きに決まってるやん」
向かい合う2人。
「ずっと、…恋人同士みたいに…してくれます?」
「する」
「じゃあ、総司さん…」
百香里はそっと目を閉じる。恋人同士だった時間はそんな長くは無いけれど。
あの頃のままに何も変わらずお互いを好きでいたいと願う。ずっとずっと。
総司はそんな百香里の唇を吸い付くように奪うと抱きしめて体を密着させる。
柔らかくてツヤツヤの若い妻の体。対する自分はただ衰えていくだけだけど。
「ユカリちゃんこそ。俺しか見たらあかんで」
「はい」
「俺な、めっさ心配やねん。年取るごとに。ユカリちゃんが離れていかんか。かっこ悪いのはわかってる。けど」
今しかないと思った。総司は自分の不甲斐ない気持ちを百香里に打ち明ける。
見せたくない場所だけど、でも、見て欲しい場所でもある。
「総司さんは心配性ですね。私も、心配しすぎちゃう所あるから。似たもの夫婦だ」
「そやね」
「じゃあ、不安になったらそのつど確認するってことで」
「うん」
笑いあう2人。百香里はそっと総司の首に手を回す。
「あと、確認したいことはありますか?」
「今日は何処までシテいい?」
「10時までには終わってくださいね。眠くて朝起きられないから」
「そこは何処までもって言うてや」
「…言わなくても分かると思って」
「可愛い」
続く