我慢
「も、もういいですから。大丈夫ですから」
「ええから。もうちょいここにおり」
「…はい」
司に授乳している百香里を膝に座らせ楽しそうに頬を寄せる総司。
百香里は申し訳なさそうにしながらも何処か嬉しそう。
「何時見てもええ飲みっぷりやなあ司」
「すごいお腹空いてたんでしょうね。ご挨拶とかでちょっと時間かかっちゃったから」
「悪かったなあ。まさか客がおったとは」
「いえ。ご挨拶はしたほうがいいと思ってたので」
祝日を利用して松前家の実家へやってきた総司と百香里、そして司。
義弟たちはそれぞれ用事があるということで欠席。専用の広い駐車場に見たことのない車が停まっていて
来客かとは思っていたが玄関への長い道を歩きやっとの事で家に入ると親戚の一家が来ていた。
初めて会う親類。それは相手も同じことで総司の妻となった百香里を質問攻めにして帰っていった。
「気にせんでええよ。親戚言うてもそんな身近なもんとちゃうしな」
やっとのことで解放され安全な場所へ行こう総司の部屋に入りベッドに座る。疲れた様子の百香里。
地位や名誉で擦り寄ってくる者たちとは少し違うけれど、彼女に家柄というものを意識させてしまうのは
同じことで百香里が必死に妻らしくあろうと無理して応対しているのが見ていて分かった。
「…私ちゃんと出来てました?」
不安そうに振り返り総司の顔を見つめる百香里。
「そんな気ぃ使かわんでええよ。勿体無いわ。おっぱい占領されとるだけでも寂しいのに」
「総司さんめいっぱい吸っちゃうから駄目です。激しいのは禁止」
「司の為や。しゃーないな」
言いながら司が吸っていないほうの胸に手を伸ばしふくらみを確認するように軽くなでる。
「…総司さん」
「司寝かせたらもっとちゃんと休もか」
「耳元で喋ったらくすぐったいですよ」
「百香里が可愛いからや」
「もう。…こんな時だけ」
優しい甘い声でわざとらしく囁くのはやめてほしい。心臓がドキドキするから。
恥かしそうにして顔だけでなく耳まで赤らめる百香里。そんな耳を甘噛みする総司。
ますます緊張してしまってのぼせそう。司はそんな母親の顔をボーっと眺めていた。
「総司様」
2人の空気を壊す冷めた声。家政婦の声だ。
「なんや」
邪魔されて少々不機嫌な総司。
「お電話でございます。秘書の御堂様からだそうです」
「わかった」
返事すると百香里の頬にキスをして部屋を出て行く。祝日といってもやはり仕事はある。
社長となると休みなんて関係ないということは百香里も今までの結婚生活で理解した。
満腹になり眠り始めた司を抱き上げベビーベッドに寝かせると総司の部屋を眺めてみる。
この部屋に住んでいた頃の総司を写真で見た。今とだいぶイメージが違う。喋り方も違う。
「…ブランコはやりすぎだよね。やっぱり」
窓から見える広い庭園。さぞかし管理が大変だろうなとぼんやり思う。松前家の城のような実家。
今でもそれらが自分に繋がるものとは思えない。そんな純和風の庭にぽつんと建てられた真新しいブランコ。
娘の為にいつの間にか作られていた。総司はここで遊ばせるのが楽しみにしている。
百香里も遊んでくれたらいいと思うけれど。自分がブレーキをかけないと遊園地でも建てられそうで怖い。
「失礼致します百香里奥様」
「は、はい!」
「お茶の準備をさせていただきたいのですが、宜しいでしょうか」
「え。え?ええ。えっと。はい。どうぞ。お、お願いします」
気持ちがフワフワと何処か遠くにあった所為か静かに入ってきた家政婦にビクっと体が震えた。
さっき熱かった所為かお茶を出してくれるのは嬉しいけれど。つい返事に戸惑う。
シドロモドロになるが相手は特に気にしている様子は無い。
「どのように致しましょうか。百香里奥様のお好みを教えていただけませんでしょうか」
「え。あの。普通のお茶でいいです」
「普通と仰られましても幾つか種類がございますので。ご希望を仰っていただければ」
「りょ、緑茶で。種類はお任せします」
「かしこまりました」
お茶をどうするか聞かれているだけなのに試されているような責められているような。
そんな気持ちになるのは何故だろう。松前家でも真守や渉にはこんなにも固まらないのに。
どうも緊張する。彼女たちが何処か冷たく事務的な態度だから?
それでも一緒に住んだら打ち解けて仲良くしてくれてこの隔たりを感じたりしなくなるだろうか。
「……司、お母さんちょっと弱気かもしれないよ」
ぐっすりと眠る娘を見つめながら深いため息。
今まで真っ直ぐに突っ走ってきた自分らしくない。
「堪忍なユカリちゃん」
自分に出来るだろうかと不安になっているところへ電話を終えた総司が戻ってきた。
「行っちゃうんですか」
「そ、そんな訳ないやん。ちょっと確認の電話しただけや。そんな寂しい顔せんといて」
自分が居ない間に何があったのか分からないけれど寂しげな百香里を抱き寄せる。
実家に連れてきたのは司の報告と娘の為に進めていた部屋や庭の様子を見せるため。
今すぐにここで暮らすための準備ではない。けれどそう思って不安にさせたのだろうか。
彼女の頭を撫でてやりながら総司はそんな事を考える。
「すいません」
「思ってる事言うてくれたらええよ。出来る限り叶えるから。やから、な?」
「…はい」
やっと総司の顔を見て微笑む百香里。
「えっちしよ」
「え?」
だが総司の言葉にキョトンとする。
「ユカリちゃんのそんな切ない顔ほんま反則やわ」
「えっ…え?…い、今ですか?このタイミングですか?」
「いつ如何なる時もユカリちゃんを愛する時や」
「わっ」
総司はニッコリと微笑むといとも簡単に百香里を抱き上げ先ほど自分たちが座っていたベッドへ。
寝かされるが乱暴にではなくて優しくふんわりと。その際に顔についた髪を避けてくれて。
最初は混乱していた百香里も途中からは総司の早業に笑いつつ手を伸ばし抱きつく。
「おお。司が飲んだ後やからかな。何時もより出が悪い」
「胸で遊ばないでください」
服を脱がされて胸があらわになった百香里。総司はそんな彼女の胸を優しく揉んだ。
快楽を与えるためというよりはお乳の出を見ているような悪戯心が見え隠れする。
百香里に怒られても笑ってキスでごまかした。
「俺はいつでも真面目やで」
「そうやって言い訳していつも千陽さんを困らせてるんですよね」
「な、なんでそんな恐ろしいことをっ」
「総司さんの事はなんでもお見通しです」
よく聞かされる千陽の愚痴をそのまま返しただけだけど。
「ユカリちゃんにそんな力があったとは…気が抜けん」
「え?」
「よっしゃ。こっちも見たろ」
まさか秘書が妻に愚痴っているとは思わず。百香里の言葉にドキリとした総司だったが気を取り直し
今度は彼女の下半身へ視線を向ける。スカートは脱がせたがまだ下着はつけたまま。
もっとセクシーでもいいと思うのだがどうしても恥かしいとかでゴムの伸びが良さそうな無地のもの。
「見るだけですか?」
「か、可愛い事言うやんか。…見るだけな訳ないやろ。ほんま意地悪な子や」
「……」
「う、うそ。うそや。意地悪やない。可愛い。ほんま可愛」
「総司様、奥様」
今度は夫婦そろってビクっと震えた。
声の主は気配で察しているのかドア越しに喋り中には入ってこない。
でも声の感じからして先ほど百香里にお茶の事を聞いた人だ。
「なんや」
「お茶の準備が整いました」
「分かった」
主の返事を確認すると声の主はさっさとその場から出て行く。
「その…お茶お願いしたの私です…」
「はは。俺も喉渇いてたし丁度ええわ」
「司を起こしますね」
「やっと寝た所やし寝かしたり。その間見といてもろたらええやろ」
「……」
「どないした?」
「あ。いえ。そうしましょう」
2人は服を着なおしベッドから出る。正直な所彼女たちに司を任せるのが気にかかるけれど。
寝ているところを無理に起こすのも可哀想なので家政婦さんに声をかけ、
自分たちは居間へ移動。お茶とお菓子の準備がなされており良い香がする。
「そこの庭にプールとかもええよね。司と水浴びなんかええなぁ」
「プールですか。いいですね」
視線の先には開かれた窓。そこから見える広い中庭。
「ほんまに?ユカリちゃんさえええて言うてくれたら直ぐにでも」
「直ぐって。まだ夏じゃないですよ」
「え?夏までに準備せなあかんやろ」
「気が早いんだから総司さんは。あんなの息ふきかけたらパパッと出来ちゃいますよ。
任せてください!私昔から得意なんです。おっきな浮き輪を3分という記録で」
「あのな?あの……俺、プール…作りたいんや」
「ですから作りましょうよプール」
「なんちゅうかなあ。普通のプールやの。ほら、小学校とかにあるよな」
空気を入れて遊ぶものではなくて、工事して本格的なもの。
総司の説明を聞いて勘違いと分かりみるみる顔を赤らめる百香里。
「そ、そんなの、そんなのいいじゃないですか。ゴムプールでいいじゃないですかっ」
「ユカリちゃんまた顔真っ赤やで」
「……総司さんの意地悪」
「はは。まあ、プールはええか。いざとなったらユカリちゃんが居るもんな」
「知りません」
「俺のケーキ食べるか?」
「食べます!」
「ほんま可愛い顔して」
ケーキを食べ終えるとのんびりする間もなく司のもとへ向かった百香里。何事も無く家政婦に見守られ
静かに眠る娘の顔を見て安心するけれど、人に任せるのが不安になるなんて。
今までそういう所に司を預けた事が無いからだろうか。でも義弟たちには甘えすぎるくらいなのに。
帰りの車の中ふとそんな事を考えていた。総司は時折そんな百香里を見つつ声をかけることはなかった。
「鍋何処だったかなぁ…鍋…鍋…」
途中の店で買い物をしてマンションに戻り休憩を挟んで夕飯作りにかかる。
その前に台所の下の棚をごそごそと漁っていたら誰かリビングに入ってくる音がした。
総司だろうかと気にせず作業を続ける百香里。
「司。ほら。お前にやるぞ。可愛いだろ。母親にはナイショだ」
どうやら渉が帰ってきたらしい。百香里には気づいていない様子。
「渉さん見えてますから」
「何だよ後ろに居るなら居るって言えよ」
「わ。本気で恥かしそうにしてる渉さんだ」
「うるさいな」
どうやら司に玩具を買って来てくれたらしい渉。話を聞いてしまいこのまま居ても気まずいだけだ。
起き上がって声をかけると彼は平静を装いつつ明らかに動揺していて珍しくほんのりと頬を赤らめている。
本気で不意をつかれ驚いたらしい。珍しい光景。
そして司に視線を向けると彼女の傍に可愛らしいピンクのヌイグルミが置いてあった。
「すいません。でも、ありがとうございます」
「怒らねーの」
「文句言ってばっかりのケチな母親と思われるのも嫌なので」
「はは。そりゃいいや」
立ち上がり何時ものように椅子に腰掛ける渉。今日は梨香とデートだったはず。
「お酒飲まれますか。それとも」
「酒はいいや、飯にする。今日家に行ったんだろ」
「はい。思ってたよりも本格的に改造されてて驚きました」
「まだベビーベッドから出られねーってのに馬鹿だよな」
苦笑する渉に百香里も同じように笑って返す。まだ早いのにあれこれ大掛かりな準備をしてしまう総司。
それくらい娘を可愛がってくれているのは母親として妻としてとても嬉しいけれど、何処にでもあるような
普通の公園で他のファミリーに混じって3人で遊ぶのもいいと思う百香里は複雑である。
もちろん自分が誘ったら総司は喜んで連れて行ってくれると思うけれど。
「あの。渉さんは嫌じゃないですか?いきなりお家が変わってしまって」
「別に。あそこ別に好きじゃねから。変わってくれたほうがまだいいかも」
「そうですか?」
「そうそう」
「なら、いいんですけど。あ。よくない」
これ以上開発が進められて庭が屋敷が跡形もなくなったらきっと義父母に怒られる。
夕飯の準備をこなしながら百香里は背筋がゾッとしてしまった。
「おお。お前帰ってたんか」
「悪いか」
そうしているうちに総司が部屋に入ってくる。手には夕刊。
「悪ないけどあの姉ちゃん怒っとるんとちゃうか?何でうちと遊んでくれへんねん!とか。なあユカ…あれ?」
「…ごめんなさい。私が悪いんです」
「え?え?何?この空気。俺何か悪い事言うた?渉」
「さあな」
「ユカリちゃん?」
「……夕飯準備しますね」
「え。なに。何があったん?俺の知らん所で何が!?え!?」
見ると視線を逸らす渉。意味ありげな台詞を言う百香里。眠っている司。
スーパーでの梨香とのやり取りを知らない総司はどんよりした空気に1人慌てる。
深い意味は無く何気なしにいっただけなのに。自分の知らない所で何かあった?
聞き出そうとしたがタイミング悪く休日出勤していた真守が戻ってきて、
その気配で起きたのか大人しくしていた司が起きて泣き出してうやむやになってしまう。
「総司さん変な想像したでしょ」
「ごめんなさい」
まさかとは思うけれど。気が気でない総司は問い詰めるまでは行かなくても何時になく真面目な顔で聞いた。
もしかしたら怖い顔だったかもしれない。緊張するなか、彼女からの返事は自分の想像と全く違うもの。
それは良かったのだが。百香里は怒っているようでとても何時ものように甘えられる空気ではない。
「もういいです。許してあげます」
「ほんま?」
「でもさっきまで顔が怖かったのでやっぱり嘘です」
「嘘かい!…あ、いや。ちゃう。…許してください」
お願いしますと百香里を見つめてみる。
「ふふ。可愛いから許します」
「か、可愛い?…ええわ。ユカリちゃん堪忍や」
「はい。堪忍します」
「ユカリちゃん」
「お話も終わったし、司が気になるのでもう出てもいいですか?」
湯船に浸かりながらの会話。どうして真面目な顔をするのに風呂場なのか。
呼ばれた百香里は不思議に思うのだが、総司からしたら何か意味があったのかもしれない。
けれど真守たちに預けている司も気になるしそろそろ茹ってきた百香里は外に出たい。
「まだ怒ってる?ここは体洗いっこしよ。水に流す的な意味合いで」
「ベッドで何でもしますから」
「よっしゃ上がろう。のぼせたらアカンもんな」
「…総司さん」
あっけない幕切れに多少呆れつつも風呂からあがり司の様子を見る。
リビングでは真守に見守られ眠る娘。義弟なら百香里も安心できるのに。
やはり自分の中で彼女たちに対する壁のようなものがあるのだろうか。
ずっと昔から松前家に仕えてくれている人たちなのに。
「義姉さん?」
「真守さんはいいお母さんになりますね…」
「え?ぼ、僕が?」
「え?…あ!違います!お父さんです!お父さん!」
「まだ疲れているようですね。あまり無理をしないでください」
「そうですね。ははは」
真守に心配されながらも寝室に入り司を再び寝かしつける。
母親としてどうあるべきか。百香里にはまだ道は分からない。
そんなにすぐに答えが出るとも思えないけれど。
「ユカリちゃん」
「総司さんのお母さんのお話が聞きたいです」
「え。いま?」
ベッドで百香里を待っていた総司。だが彼女はベッドに入るなり正座した。
「はい。今。何でもいいんです。話してくれませんか」
「えっちしながら話したらあかんかなぁ」
「総司さん」
「…わかった」
ガックリする総司だが百香里のお願いは無下にできず。
彼女を抱き寄せ懇々と母の記憶を語って聞かせた。
続く