前夜
「苦しいやろうけど、あとちょっとの我慢やで」
「はい。…総司さん、ずっと傍に居てくれますか」
「おるよ」
手を握り締め見詰め合う。それだけでこれからの戦いに勇気がわいてきた。予定日を明日に控え
順調に陣痛も始まってきてかかりつけの病院で過ごす百香里。妊娠するまで病院なんて殆ど
かからなかったからこうして泊り込みでベッドに寝ているのは変な気持ち。総司は会社に連絡がきてすぐ
仕事を切り上げ百香里の元へ駆けつけて傍に居てくれた。恐らくかわりに真守が動いているのだろう。
「……」
「……」
ギリギリまでもっと頑張れると思ったのにすぐ連絡して、思いのほか弱かった自分。
仕事を中断させてしまって総司や義弟たちに申し訳ないなと思いながらも安堵している。
「な、なんかその。話をしましょう?そんなだまっちゃうと怖いですから」
「あ。そ、そうやな。堪忍」
「えと。あの。じゃあ、総司さんの子どもの頃の話しとか」
初めての出産に不安も戸惑いも隠せない百香里。何時もみたいに話をしたいのに
総司は真面目な顔をしてギュッと手を握り見つめるばかりで。静なのは逆に怖い。
百香里の言葉に少し握る手が緩んで。表情も柔らかくなったように思う。
「真守に負けんくらい真面目なええ子やったで。顔も渉に負けんし」
「もう。総司さん真面目に」
「酷いなあ」
「見せてもらった写真で見ると総司さんはお義父さん似ですね。渉さんはお義母さん似」
「真守は?」
「どっちにも似てます」
「そうか。それぞれ松前家の特色をもっとる訳やな」
「はい。…この子はどっちに似るのかな」
「似るならユカリちゃんがええな」
「私ですか」
「そうやで。男でもええけど、女やったら男ばっかりのむさくるしい家が華やかになるなあ」
「確かに男の人ばっかりですけど、私むさくるしいなんて一度も」
「せやけど結婚していきなりあの2人と一緒に住むことになるって思わんかったやろ」
「おまけにあんな広い部屋だとおも思いませんでした。普通そうでしょう?」
「やよなあ」
こうなるなんて結婚前にちゃんとした説明なんてなかった。
だから百香里は彼が住んでいた何処にでもあるような普通のアパートで暮らすものとばかり思っていた。
母親にもその事は話していたから結婚しても仕事は続けないといけないねと苦笑しあっていたのに。
まさかの見上げるような高級マンション。まさかの社長就任。そして2人の義弟たちとの生活。
「楽しいですけどね」
最初はどうしたものかと戸惑ったりしたが今はそれが普通になりつつある。
金銭感覚だけは慣れなくて自分のルールを通させてもらっているけれど。
「夫婦やのにコソコソして堪忍な。親父があのタイミングで死ぬとは思わなんだ。ほんで俺を指名するとは」
与えられた試練を乗り越えられないまま逃げだした自分を起業のトップに。
厳しい父親がそんな中途半端な男を選んだのは周囲の人間だけでなく総司本人も意外だった。
やはり長男だからという安易な理由なのだろうか。未だにそこは総司には分からない。
結果それで百香里を振り回す事なってしまって。
「お義父さんが生きてたら…、2人であのアパートで生活してたんですね」
社長なんて忙しいことにもならないで定時に帰ってきて2人で夕飯を食べて。
そんなお金は無くてもきっと幸せなありふれた家庭。百香里が最初に思い描いた家族のありかた。
たぶんそれが一般的なものだと思う。いきなり生活レベルが変わるなんてない。
「そやね」
「そうなってたら私は認めて貰えなかったのかな」
「かもしれん。けど、ユカリちゃんはええ子やからすぐに分かってくれたやろ」
「…総司さん」
逃げてばかりいる自分と違い彼女は一生懸命あの父親に理解してもらおうと動いたはず。
家の事をちゃんと話せなかったのはそんな事をさせたくなかった。なんてのは勝手な言い訳。
単純に彼女に愛想をつかされたくなかっただけ。
「いつでも部屋借りるし。何やったら家建ててもええから。…すぐ言うてな」
「真守さんも渉さんも優しいし好きだから今のままでいいです」
「甘やかしすぎはあかんで」
「総司さんは愛してます。心から」
「僕はもっともっと甘やかして」
奥様のことも甘やかすから。そう言って彼女の頬にキスする。
くすぐったそうにする百香里。
「ふふ。あ…総司さん着替えは?会社からすぐにここに来たんですか?」
「後で渉にでも持ってきてもらうわ」
「お酒飲んでないといいですけど」
百香里はチラっと時計を見る。いつもならこの時間ビールを飲んでテレビを観ている頃か。
何時もの癖で夕飯や途中で投げ出してきた洗濯物とかが気になり始める百香里。
「飲んでへんやろ。ユカリちゃんの事ほんまに心配してたし、なんやかんや言うて素直なええ奴なんや」
「総司さんって渉さんにはちょっと甘いですよね」
「そうか?真守にもよう言われるけど、そんなつもりは」
「末っ子だから甘やかしちゃうとかですかね」
「そうなんかなあ」
「いいですよね。兄弟って。…私のお兄ちゃんは、ちょっと困ってますけど」
妊娠を報告した時、さすがに嫌な顔はしなかったけれど心から喜びもしなかった。
出来ればそうなる前に総司と別れるべきだと思っていたようだから。
最近もその事で総司の所へ行ったらしいがその詳細は教えてもらっていない。
総司を傷つけないでと兄に文句を言いたいが今こういう状況なので産むことに集中しよう。
「そんなん言うたらアカンよ。心配してくれてるんやから。そや、お義母さんと義姉さん明日様子みに来るって」
「お義姉さんの前だからって鼻の下伸ばしたら駄目ですからね」
「分かってるて」
「もうすでに伸びてるような。…総司さんお腹すいてるでしょ?何か食べてきてください」
「そやね。何か買ってくるわ」
「私に付きっ切りも疲れちゃいますよ。何処か外で」
「ずっと傍に居ってって言うたやん。俺も1人で食べるより2人のがええ」
「…総司さん」
「ほな大人しくまっといてな」
「はい」
部屋を出て行く総司。その間さえも寂しく感じてしまうのは自分今不安な気持ちを抱えているからか。
それとも、本来病院というものがあまり好きではないからか。こうして自分が病院のベッドに寝ているのは
どうにも不思議な気持ちがする。目を閉じると幼い頃病院で父親が眠ったようになくなったのを思い出した。
あれから母も兄も、そして自分も必死になって生きてきた。生きるってこんなに大変なんだと思って。
そうしているうちに気持ちが麻痺して忙しさも苦労も苦ではなくなっていった。
「ユカリちゃん寝てるんか?」
「起きてます」
暫くして総司が戻ってくる。足音で気づいていたけど目を閉じていたら
寝ていたようにみえたようで。優しく声をかけられそっと目を開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい。いいものありました?」
「あんまり。適当にこうてきたわ」
「病院ってやっぱり苦手です。好きな人も少ないと思うけど」
「俺もや」
「悩んだりするの苦手なんですけどつい考えちゃうんです。…お父さんの事とか。
もしかしたらもっと違った道があったのかなとか。しょうがないのに、いろいろ」
もしもの話しなんてしたって何の意味も無い。今こうしてある現実が全て。
そう嫌でも周囲の環境に教えられて生きてきたけれど。こうしてベッドに寝ていると考えてしまう。
総司は再び百香里の手をとり何かを考えている彼女の顔を複雑そうな表情で見つめている。
「俺は親父の最後見届けてへんかったからな。あの世で怒ってるやろな」
「一緒に謝りますから大丈夫です」
「そうか。なら、ええかな」
「考えちゃうけど。でも。やっぱり後悔はしません。自分で選んだことですから」
「ユカリちゃん」
「この子が成人する頃にはまだ私40歳ですもんね。若いママです」
「……」
「あ。あの。総司さん?」
「…あんまり歳の話はせんといて。これでも結構気にしてるんさ」
「ごめんなさい」
「ええんや。何時までも若々しく男前な父ちゃんでおったる」
「はい」
しゅんとしてしまった旦那さまを気遣いつつ食事をしてもらって話をして。
笑いあっていたのにいつの間にか百香里は眠ってしまったらしく意識が遠のいた。
あんなに不安だったのに。やはり総司が傍にいるとこうも違うらしい。
「どう」
「寝とるわ」
「……関係ねーのに、なんかソワソワする」
「はは。移ったんかな」
百香里が寝付いたのを確認し部屋から出る総司。廊下に待っていたのは渉。
手には着替えの入った袋。ついでに少し話をしようと廊下を歩き待合ルームに入った。
時間も遅く人もまばらで少し不気味ではあるが話をするには丁度いい。
「ユカりんの事だし心配ねえと思ってる。だから、あんたちゃんと傍に居ろよ」
「すまんなぁ。真守にも迷惑かける」
「いいよ。…こういう時くらいしかできねーし」
生まれるかもしれないのに会社に居るなんて出来そうにない。
明日は真守と渉に全てを任せようと社長失格な判断を下している。
文句を言われるかと思ったが秘書も専務も何も言わなかった。
病院独特の静かな空気の所為か渉も何時もより大人しく素直。
「勝手に家出てって勝手に戻ってきて引っ掻き回して。俺の事は嫌ってくれてかまへん。
ただ、ユカリちゃんと生まれてくる子には優しくしたってな」
「いいけど。あんたに似たら知らね」
「俺もユカリちゃんに似た子がええんや」
「性格まで似たら色んな意味で手焼くぜ」
「はは。まあ、それも可愛いもんや」
「じゃあ行くわ。俺も真ん中の人も明日夜まで来れないから。結果教えろよ」
「分かった」
「…それによって買ってくるモンが変わるんだからな」
ぶっきらぼうに言うと席を立ち去っていく。総司はそれを暫し見送り、
百香里が眠る部屋へと戻った。明日はどうなるか分からない。彼女だけの戦い。
自分は傍に居てやることしかできないのが歯がゆい。彼女のオデコにキスして。
暫くはこの愛らしい寝顔を眺めていようと見つめていた。
「そ、総司さん」
「何や」
「トイレ行きたいだけなので。これ以上の付き添いはいいです」
「あかんよ。トイレで産気づいたらどないすんねん。俺が傍におったる。というか、脱がしたる」
「嬉しいんですけど、ほんとに、あの、恥かしいからいいです」
「俺に何もかも任せておいで」
「…もう」
続く