日常 2


『大丈夫やった?何処も悪なってへん?』
「はい。私は全然大丈夫なので帰りにお酒買って来てください」
『分かった。…けど、無理したらあかんよ?』
「はいはい」

無事に部屋に到着した百香里。ソファに座って休んでいたら思い出した。
電話しないと総司の事だから心配になって会社を抜け出す。子機を取り
有事に備えあらかじめ短縮に登録されている社長室へ直に繋がる番号にかける。
コールしてすぐに心配そうな夫の声がした。

『ユカリちゃん真面目に聞いて』
「総司さんから真面目になんて言われるなんてちょっと面白いです」
『わ、笑い事と違う!ユカリちゃんはまだ若いし、初産やし。しっかりしてるけど最初は不安やろし。
こんな時は傍に誰か居ってもらった方が本当はええんやろけど』

けれど残念な事に松前家側からは誰も傍に置ける人材が居ない。
実家に居るあの使用人たちだけには百香里を預けたくない。でも心配。
総司はハラハラしてしょうがないが妻はいたって明るい返事。

「ありがとうございます。でも、そこまで気にしてくれなくても大丈夫ですから」
『そうか?』
「はい。分からない事があれば母に聞きますし、お義姉さんにも相談に乗ってもらえますし」
『お義母さんやお義姉さんに昼間ウチに来てもらってもええから』
「それより、こんな長いこと話してていいんですか?千陽さん怒ってません?」
『ええねん。ユカリちゃんの声が聞きたい。不安でしゃーない』
「そこまで駄目なママですか?私」

お腹を撫でながら少し拗ねたような言い方をする百香里。
確かに総司の方がずっと年上だし出産を見るのはこれで2度目になる。
大変さを間近で見ているからつい過剰に心配になるのかもしれない。けど、
何となくそれが子ども扱いされているような気がして。少し不服。

『俺、歳とってるから心配性になってしもたんかな。…ははは』
「不安は今の所ありません。傍に総司さんや真守さんや渉さんが居てくれますから」
『酒だけでええの?言うてくれたら他にも何か買うてくで』
「じゃあ、おいしそうなお菓子があれば」
『任しといて』
「…総司さん」
『なに?』
「前の奥さんの時も、そんなに心配してたんですか?」

急に過保護になったり心配したり普段でも優しいのにもっと優しくなったり。
今まで百香里から前妻の話はしなかったし総司もしない。
前に娘と会っているのを聞いて嫉妬する事はあったけど、胸にしまってきた。
なんとなく不意に聞いてみたいと思った。なぜかは百香里でも分からない。

『そやね。家事とか全部俺がしてたし。連絡あったらすぐに家に帰った』
「変わらないんですね。今も昔も」
『ユカリちゃん』
「そうだ。梨香さんに貰った胎教CD聴くんだ。じゃあ、頑張ってくださいね」
『うん…ユカリちゃんも無理したらあかんよ』

ギクシャクする会話をしてしまったからお互いに微妙な気分のまま電話を終える。
百香里は子機を戻し寝室に向かう。梨香がプレゼントしてくれたCD。
これを聴けば将来天才になるとかいう眉唾ものCDだけど。放置するわけにもいかない。

「…あ。…コンポなかったんだ」

CDを取り出してから気づいた。寝室にはCDを再生するものがない。
越してきた時に家から持って来たコンポはもう10年くらい使ってて
まさにポンコツだったのだがそれでもまだ聴けると使っていた。
が、ついに先日ご臨終して泣く泣く廃棄した。まだ後釜は居ない。


『あのさ、仕事中に心臓に悪いメールすんのやめろよ』
「え?そんなに不気味なメールでした?お仕事は大丈夫ですか?」
『大丈夫だから電話してんでしょ。で?用事ってなに』

幾ばくか悩んで渉にメールをした。彼はコンポを持っている。
それもかなり高性能で高そうなやつ。でもあまり聴いてない様子で
邪魔そうに部屋の隅においやられている。
彼の部屋を掃除したり着替えを持っていくたびに勿体無いと思っていた。

「渉さんの部屋のコンポお借りしたいんですけど」
『はぁ?そんなのいちいち聞かなくても勝手に使えばいいだろ』
「勝手に入ったら悪いかと思って」
『いいよ。好きに使って』
「ありがとうございます!」

渉は呆れたような安堵したような腹立たしいような複雑なため息をした。
いきなり百香里から「休憩時間になったら連絡ください」なんてメール。
急いでとか緊急とかいう文字はなかったけれど、嫌な汗をかいた。
まさかコンポ使わせてくれなんてそんな話だなんて。脱力もいいとこ。

『まあ、平和でいいんだけどさ』
「はい?」
「あ、でもこの前邪魔だから棚の上に移動させたんだった』

処分に困っていたコンポ。その場所に別のものを置きたくて移動させた。
棚は百香里の身長では丁度手が届かないサイズ。

「ああ。あの棚ですね、分かります。それじゃあ使わせていただきま」
『あんた手届かないだろ』
「あれくらいなら何か土台もってくれば平気ですから」
『土台って』
「実は専用の土台作ってまして何時も高い所はそれで掃除を」
『ば、馬鹿じゃねえの!?それで転んだらどうすんだよ!』
「え?大丈夫ですよ。今まで転んだことないですから」

いたって明るく暢気に言うものだから渉は頭痛がした。

『帰りに買ってってやるからコンポは諦めろ』
「え!いいですって。そんな勿体無い」
『あと土台は捨てろ』
「渉さんって結構厳しい人なんですね…」

もちろんお店で売っているようなものではなくて
百香里が考案したありあわせのモノで作った土台。
やはり育ちのいい人にはそういうのが気に食わないのか。
なんて全然違う方向で考える百香里。

『いいから。俺のコンポには触るな』
「でも胎教CD」
『そんなもん窓から捨てちまえ』

まだ分かってない様子の義姉にはき捨てるように言うと渉は電話を切った。
あの無自覚さがすこし心配ではあるが、彼女はするなと言った事を
誰も居ないからってこっそりやるような人間ではない。そこは安心。

「捨てろなんて勿体無い。梨香さんがくれたものなのに」

百香里としてはちょっと時間をもらいメールで使用許可を頂くつもりだった。
が、最終的に渉に怒られてしまった。しょんぼりしながらもCDを寝室の机に置いて
リビングに戻りソファに座る。何時もなら昼の準備をしたり目に付いた場所を
軽く掃除をしたりしてあっという間に時間が過ぎるのに。長く感じる。


「どうした?お前が声を荒げるなんて珍しい」

軽いため息混じりに携帯をしまい戻るため廊下を歩いていたら
何処からか知らないが先ほどのやりとりを見ていたらしい兄。
嫌な奴に嫌なタイミングで会った。渉は視線を逸らす。

「別に何でもいいだろ」
「プライベートはどうあれ声を荒げるようなことは家では控えろよ」
「わかってるよ」
「ならいいんだ。余計な世話だったな」

ろくな返事もせず去っていく渉を見送り真守も歩き出す。
プライベートで何があろうとも家には持ち込まない。
反抗的ではあってもちゃんとそれを守っている弟に苦笑した。

「どうかなさいました?」

書類をもって部屋から出てきた千陽。そこへ歩いてくる専務がみえた。
それもめずらしい事に少し微笑んでいる。彼が職場で微笑むのは稀だ。
何時も仕事に追われたり自由すぎる社長に悩まされているから。
千陽としては本当は何があったのか物凄く知りたいけどここは我慢。

「あ、いえ。何でもありません。社長はどうです落ち着きましたか」
「奥様から電話が来てご機嫌だったはずなんですけど」
「機嫌が悪いんですか?」
「酷く落ち込んでいる様子で。今もこの書類に目を通していただきたかったんですが」
「僕が行ってみます」
「お願いします。でも、大丈夫でしょうか。かなり暗くなってましたけど」
「大方義姉さんの世話を焼きすぎて怒られたんでしょう」
「ああ」

あの社長なら大いにありえる。千陽は納得した様子で書類を真守に渡し
秘書室へと戻って行った。真守は入れ違うように社長室へと向かう。
義姉は歳のわりにしっかりした人だから構いすぎる兄に活をいれたのだろう。
何れこんな日が来るだろうと予想はしていた。

「入りますよ、社長」
「…ああ、…お前か」
「義姉さんの事で落ち込んでいるんですか」
「何でわかった?」

部屋に入ると椅子に座ってボーっと天井を眺めている社長。何時もなら
社長に厳しく注意を促す所だが今はあまり感情的にはなりたくない。

「貴方がそこまで落ち込むのは今はもうあの人関係だけでしょう」

ほかの事にはビックリするくらい楽天的。困ったことに。

「俺はアホや。あかんたれや…もう…心が折れそうやぁ」
「貴方がそんな事でどうするんですか、義姉さんを支えてあげないと」
「そやけど…前の嫁さんの時の事聞かれて、素直に答えてしもて」

口に出してしまってからずっと総司の心に残るしこり。
何より百香里が嫌な思いをしたのではないかという後悔。こんな気持ちになるのなら
嘘をついてでも彼女を優先させるべきだった。頭を抱えて悩む総司。
真守は自分の予想が外れていた事を知る。しかし何故前妻の話になんかなったのだろう。

「取り繕った所で義姉さんには通じないでしょう、女性は鋭い所がありますから」
「そやろか」
「それにあの人を欺くなんて兄さんには出来ない」
「…ああ、そやな。ユカリちゃんに嘘はつきたない。…嫌な思いさせても」
「それでは社長お話を戻しますが、この書類に目を通していただけますね。
さもないと何時もの時間に帰宅は無理な話しになりますが宜しいですか?」
「げっ!あ、あかんよ!買い物頼まれてるんやから!」
「では」
「…ま、…まかせてや」

兄の行動思考パターンを読み始めた弟は手ごわい。
総司は書類を受け取るとただただ笑うしかなかった。
すべては愛する妻の為に。そう思えば何ら苦ではない。

「逃げても無駄ですから」
「に、逃げるかして。あはははは」

たぶん。



「ほら。これでCD聴けよ」
「ほ、本当に買ってくださったんですね…」
「ウォークマンも要るか?」
「そこまで聴きませんから、でも、…高そう」

夕方になり何時もの時間より少し遅れて帰ってきた渉の手には中くらいの箱。
百香里にというからそれを受け取ろうとしたら速攻で机に置かれた。中をのぞいてみると
女性でも持ち運びが楽そうなシンプルな形のCDラジカセ。

「全然高くない。カセットばっか持ってるからラジカセにしたけど、何年前だよ」
「で、でも、いいんでしょうか」
「いいから。これならユカりんでも持ち運びできる」
「嬉しいです。ありがとうございます!じゃあ早速!」
「ああ。…あ?胎教CDだっけ?」
「はい!説明を読んでたんですけど、聴けば天才になるとかスポーツ万能になるとか」
「うわ。どこのインチキ宗教だよ」
「待っててくださいCD持ってきます」

実は買いに行った量販店で何にするかで悩んでいた渉。でもあの人の事だからと
機能や音質がいい高価なものはやめて叩き売りされていたラジカセを選んできた。
案の定今にも飛び上がりそうなくらい百香里は喜んでいる。
渉はその様子を見て本当に20歳の娘なのかと思うけど、それがウチの義姉だ。

「ただいま!ユカリちゃん!ユカリちゃ…なに?このめっちゃ眠い音楽」
「お帰りなさい」
「これ何なん?あ。これが流行の癒し系か?」

10分ほどして総司が頼まれたものを買い込んでリビングに入ってくる。
ソファに座っている百香里と何故かグーグー寝ている渉。
そして部屋に響くこのどうにも眠くなるゆっくりとした音楽。ポカンとした。

「胎教CDです。あ、聞いてください。渉さんが新しいラジカセ買ってくれたんです!」
「そうなん。それはええんやけど…何で寝とるん?」
「心地よかったんですよきっと。赤ちゃんが心地いい音楽が流れるらしいですから」
「…そうやろか」

たんに眠たい音楽だからじゃないかと思ったが総司は口にせず。
自分でお酒を倉庫に閉まって買ってきたケーキを冷蔵庫にいれる。
百香里は昼のうちに夕飯の準備を粗方終えていて。

「お酒飲まれますよね。おつまみ用意しますから今」
「ええよ。酒買うついでにつまみも買うてきた」
「でも」
「ユカリちゃんは胎教やろ」

酒を飲む2人の為につまみをだそうと台所へ向かう百香里を引き止めて
総司が持って来た袋からイカやら豆やら取り出す。全部つまみ。
これなら暫くは用意しなくていいだろう。たぶんその為に買い込んだのだ。

「俺あたりめもらい」
「渉さん」
「もってき。ユカリちゃんにラジカセ買うてもろて悪かったな」
「別に。ビール」

いつの間にか起きていた渉は自分の分のつまみを持って席につく。
ここぞとばかりに百香里がビールを取りに行こうとしたら総司が早々と動いて弟に渡した。
どうやら先ほどのビールは百香里に言ったのではなく総司あてだったらしい。

「ねえ、…私やることないんだけど。このままでいいのかな?貴方はどう思う?」

同じテーブルで酒をのみながらもあんまり会話が成立してない兄弟を他所に
百香里はCDを聴きながらお腹のわが子に問いかけた。

「あのCDもお前が買うてくれたんか?」
「は?何で俺が。あんただろ?」
「俺ちゃうで」
「じゃあ真ん中の人じゃね。そういうの好きそう」
「ああ。真守か」
「こんなクソ眠い音楽で天才になるなら世界中天才だらけだっての」
「お前それユカリちゃんには言ったらあかんで。あんな熱心に聴いてるんやから」
「へいへい」


続く


2010/09/08