日常


「あのぅ」
「ん?あ。調子悪い?」
「そ、そうじゃないんですけど。…何でそんな遠くに」

百香里はゆっくりと起き上がり夫の居るほうを見る。
手を伸ばせば届く距離ではあるが離れているには違いない。

「寝相悪いから。ユカリちゃんに負担かかったら嫌やし」
「だからってそんな」

何時の間にやら寝室に簡易ベッドを持ち込み寝ている総司。
自分がそっちで寝ますと言っても笑うだけで聞いてくれなくて。
気遣いは嬉しいけれどこんな広いベッドに1人寝かされても寂しい。

「何かあったらすぐに言うんやで。最初の方は安定せえへんから」
「…はい」

確かに一緒に寝ているとたまに彼の足やら腕が乗っている事はあるけど。
それを苦にしたことはなかったし改善してと頼んだことも無い。
昔はよく親戚の子たちと狭い部屋で雑魚寝をしていたから慣れもある。

「おやすみユカリちゃん」

総司が電気を消して静に目を閉じる百香里。
念願だった子どもを授かって嬉しくて仕方ない。けど、
生まれてくるまでずっと総司に触れてもらえないなんて。


「おはようございます」
「おはようございます。あの、私がしますから」
「大丈夫です、これくらい。あ、…義姉さんのは、…ご自分で、お願いします」

気遣ってくれるのは夫だけではない。朝になり、まだ眠っている総司の寝顔を眺めてから
今日も頑張ろうとリビングに下りてくると真守が洗濯物を干してくれていた。
いつの間にか洗濯機の回し方を習得していて兄弟の分は自分でしている。

「じゃ、じゃあ、朝食を」
「すいません。料理ばかりは…」
「真守さんが料理まで出来ちゃうと私やることがなくなっちゃいますから」

苦笑いしながら台所にたつ百香里。真守は自分でコーヒーをいれる。
いきなり何でもこなすような器用さはないと思うが努力家である真守。
何時の間にか料理までも習得してしまいそうで少し困る。

「おはよ」
「おはようございます、ご飯もう少しで出来ますから」
「…そう」

暫くしてまだ寝ぼけ眼の渉が大あくびをしてリビングに入ってくる。
静に新聞を読んでいた真守は不快そうな顔をするが文句は言わない。
だから最近では喧嘩は殆どなくなった。

「あの。…もう少し、何かこう」
「なに?」
「何かお手伝いしましょうか」

その結果、調理の音がするだけで一切会話の無い恐ろしく静かな空間に。
顔を合わせれば喧嘩ばっかりで困ってはいたが、それでも松前家の何時もの朝として
百香里としてはそんな嫌いではなかったのに。気遣ってくれるのは嬉しいけど。
これじゃ余計気を使うと言うか。この気持ちをどう説明すべきか百香里には分からない。

「いえ、あの、…あ、…じゃあ、…これお願いします」

2人とも厚意でしてくれている事。だから、やめてくださいとは言い難い。
結局何も言えないまま朝食の準備を終えて総司もおりてきて、
4人での朝食。またここでも殆ど会話がなくてしんみりしてしまう。

「ユカリちゃん無理したらあかんよ。絶対や。約束して」

弟たちに言われたのか自分で決めたのか、何時もみたいにグズる事なく
すんなりと会社に行く準備をして玄関に向かう総司と見送る百香里。
真守や渉は既に出て行った。最近では行ってらっしゃいのキスをする前に
誰も居ないからって無茶をしないようにと強く釘をさされる。

「はい。それと、今日は定期健診に行ってきます」
「ええ!?そ、そんな話聞いてへんけど!?」
「だって総司さん話したら自分も行くってお仕事休むから」
「あかんて。俺も行く。絶対行く!」

言わないでおこうかとも思ったけど、やはり黙っていくのはいい気はしない。
想像した通り百香里の言葉にショックを受けて絶対に行くと譲らない総司。
でもいきなり休むなんて連絡して大丈夫なのだろうか。

「じゃあ、電話をして千陽さんが良いって言ったら」
「ユカリちゃん。俺は夫やで。社長やで。そんな秘書に確認とか…ちょっとまって電話してみる」

即座に携帯を取り出し電話をかける総司。
百香里としては、彼に一緒に来て欲しいような。欲しくないような。
複雑な気持ちでドキドキしてしまう。胎教によくないかもしれない。
暫くして総司が秘書となにやら話をして。結果が出たらしい携帯を仕舞う。

「それで?」
「1時間だけ貰った」
「そう…ですか。じゃあ私準備してきますね」
「うん」

なんとかもぎ取った1時間。のんびり行こうと思っていた百香里だが
すぐに出かける準備をして玄関に戻る。総司はスーツのまま。
もしかしたら病院からそのまま会社へ行くことになるかもしれない。
けど、やっぱり一緒に居てくれるのは心強いのだと実感してしまった。
それを口にしたら会社に迷惑がかかりそうで出来ないけど。


「総司さん」
「なに?」
「子どもの名前とか考えてます?」

車に乗り込み暫くしてから百香里は質問する。
まだ性別もわからない状態だけど。

「少しくらいは。けど俺の感覚やと古いかもしれん…最近は色んな名前があるし」
「そうですね」

まだ先の事ではあるが、必ず通る名前問題。総司の両親は既に亡くなっているし、
さりげなく聞いたら百香里の母も名づけなど自分には恐れ多いと言って遠慮され。
決定権は夫婦にある。総司は妻の意見を尊重してくれそうだけど、どうしたものか。
大事なわが子の名前。百香里はぼーっと外の景色を眺めながら考える。

「ユカリちゃんみたいな可愛い名前がええなあ」
「じゃあ、男の子だったら総司さんみたいな名前に。1文字貰うとかよくありますよね」
「あかんあかん。んな名前つけたらロクでもない男になるで」
「じゃあそんなロクでもない男が旦那さまの私はロクでもない女ですか?」
「ユカリちゃんは俺には勿体無いくらいええ子や」

チラっと総司の様子を見ると運転しながらもどこか浮かない顔。
もしかして自分の名前が好きではないのだろうかと思う百香里。
素敵な名前だと思うけど。感じ方は人それぞれ。

「総司さん」
「あんな、松前の長男は代々先祖さんの総の字をもらっとるんや。
そうする事で何れ一族を率いていく自覚を持たせるとかなんとか爺さんがよう言うてたけど。
俺にはそんなもんただの足かせにしか思えへん。せっかく生まれてきたのに。可哀そうや」

もし男の子だったら。
生まれでた瞬間から松前家の長男として生きていく道が出来ていて、
それに見合った厳しい教育だとか躾けとか本人の意思に関係なくされて。
子どもらしいことは何も出来ない、そんなわが子の姿はみたくない。
自分の過去を思い出したのか総司は渋い顔をする。

「優しい」
「そんなんやないよ、…アホな男やで」
「でも。私は子どもを思ってくれる総司さんが好きです」

百香里がニコリと笑うとちらっとそれを見た総司の頬が少し赤らむ。
そんな照れている姿が可愛らしくて百香里はまた少し微笑む。

「やっぱり女の子がええなあ。ユカリちゃんにそっくりな可愛い子」
「でも女の子じゃ何れお嫁さんに行っちゃいますけど?」
「それやったら大丈夫や、ウチよりでかい会社やないとお取引せえへん」

日本でも屈指の企業である松前グループ。それよりも規模が大きいなんて。
総司は鼻息を荒くしているが冗談という様子でもない。たぶん本気。
娘だったら結婚以前に交際さえもこの父親の前では大変そうだ。
暫くして母の代からお世話になっている産婦人科に到着。


「じゃあ、ここで待っててください」
「俺も行くで。一緒に話し聞かんと」
「そ、そんな。困ります」
「何で困るん?」

確かに一緒に話を聞いたほうがいいのかもしれない。
受付を済ませ名前を呼ばれる。百香里は1人で行くつもりだった。
聞きたいことがあったから。それを彼に知られるのは不味い。
結局断わる理由が見つからず、総司と一緒に先生の下へ。

「あの、先生」
「はい」

無事に定期健診を終え総司が看護師さんに話をされている隙を狙い
百香里はこっそりと先生に声をかける。
彼女が夫の様子を気にかけているのを察してか先生も小声。

「妊娠中は、…その、せ、セックスしないほうが…いいですか?」

変な質問してるなと思いながらもずっと聞きたかった事だからここで引けない。
顔を真っ赤にさせながらも百香里は先生に尋ねる。先生は納得した様子で
まだ話をしている総司を気にしながらも優しく丁寧に答えてくれた。

「順調でよかったなぁユカリちゃん」
「はい。あの、総司さん時間大丈夫ですか?私、バスで帰りますけど」
「あかんよ、ちゃんと部屋まで送り届けるから」
「でも買い物とかもしたいし」
「ユカリちゃんは俺がおったら嫌か?時間かてそんな気にせんでも、真守が居るし」

何となく百香里に避けられているような気がしていた総司。言うまいと思っていたが
車に乗ることを拒まれついそんな言葉が漏れる。定期健診の事も朝になって言われた。
気に障るような不味いことをしたのかそれとも自分は邪魔でしかないのか。不安になる。

「総司さんが傍に居てくれたらとても心強いです。でも、総司さんは社長さんだから。
皆さん戻るのを待ってると思うんです。真守さんじゃ出来ない事もあるはずですし」
「せやけど、…心配で」
「じゃあお買い物しないでまっすぐに帰りますから。ね」

総司の手を握り強く言う。百香里は言い出したら聞かない所がある。
それは総司もよく知っている。だから、
その真っ直ぐな瞳を見て何を言っても彼女が車に乗らない事を察した。
妊娠している自分の事よりも総司の会社の事を心配して。

「……、何かあったらすぐ電話してな。寄り道はなしや。ついたら電話して」
「はい」
「最後に確認してええ?」
「何ですか?」
「俺の事、嫌になってへん?」

ついて来て欲しくないのに無理に来たのが嫌だったとか。
総司は手を繋いだまま寂しそうな顔をして視線を百香里から逸らす。
前妻との間に子どもが居て出産の喜びは1度味わっている。
けど、百香里との子もまるで初めてのように嬉しかった。

「んー」
「ええ歳してはしゃぎすぎた。ちょっとくらいは堪えるから。な?…堪忍して」
「ちょっとだけですか?」
「ああ、そう、そうやな。そんなら、…程ほどに」
「何時も通りに接してください。それでいいんです」
「ユカリちゃん」
「総司さんに抱きしめてもらえないのが一番嫌」

百香里は握っていた手を離し総司の胸に顔を埋める。ぎゅっと抱きついたら
すぐに抱き返してくれて、久しぶりの抱擁に胸がドキドキしてきた。
お腹の子にも少しは届いているのだろうか。この心地よさ。幸せな気持ち。

「…堪忍や」
「はい。という事で、私はバスの時間がありますのでこれで失礼しますね」
「あん。何でそんなクールやの?そこもまた可愛らしいけども…」
「帰ったら存分に熱くなりますから」
「えっ」
「お仕事頑張ってくださいね。それじゃ」

惜しみながらも総司から離れ軽く手を振ってからバス停に向かって歩き出す。
そんな百香里の後姿を暫く見ていた総司だったが電源を切っていた携帯を戻すと
秘書からの何時戻るのか?というメールでいっぱいですぐに車に戻る。
1時間なんてあっという間に過ぎていたことを今になって知った。
百香里と居ると時の流れが速く感じるのは何故だろう。

「冷蔵庫の中のもので何とかなるけどお酒が…。後で総司さんに買って来てもらおうかな」

総司と別れた後、バスに乗り込み冷蔵庫の在庫を思い出しながらメニューを考える百香里。
昼は自分だけだからナンとでもなる。でも、皆がそろう夕飯は別。適当なものは出したくない。
気遣って外で食べてくるとか人を雇うとか色々と案が出されたが百香里が断わったので保留。
このままでは本当にやることがなくなる。寝ている座っているだけなんて想像も出来ない。


「社長、本当に奥様の定期健診だったんですか?」
「ひどいわぁ千陽ちゃん。当たり前やん」
「嘘はついてないでしょう。もし嘘だったら兄さんの事だ昼過ぎまで戻らない」
「そうそう…って、真守そらあんまりやろ」
「とにかく。遅れたぶんを倍速で取り戻していただきますからね。社長」
「こわぁ」
「なにか」


続く


2010/09/06