善悪


「ここんとこ全然会ってくれないから心配してたんだからね。何かあったんじゃないかって」
「なんもねえよ」
「でも凄い疲れた顔してる」
「いちいち聞くな疲れる」

休日がきてもまだ3日ほど専務代理は続けなければならない。
こんなにも気が重たい休日なんて初めてかもしれない。渉は深いため息をする。
彼をデートに誘った梨香もそんな恋人を見て本当に心配しているようだ。何かと世話をやく。

「今日はパーッと遊んで気晴らししようね」
「お前は能天気でいいな」
「な、なによ。渉の事を思って」
「そうか。悪いな。ありがとう梨香」

彼から面と向かって感謝の言葉が出るなんて意外だった。優しく微笑む渉。
まさかそんな返事が来るなんて思わなくて梨香は顔が真っ赤になる。
笑うとちょっと幼く見えたりして。可愛いじゃないと心の中でのたうちまわる。

「渉…」
「何てな。バーカ」
「も、もう!素直じゃないんだから!ツンデレ!」

渉に翻弄されながらもデートはそれなりに楽しく過ごせそうだった。


「え。僕がですか」
「そうや。頼まれてくれ。いたたまれんのや」
「しかし」

百香里が洗濯物を干している間にコソコソと話をする兄弟。
その手には赤ちゃんの形を模した人形と説明書のようなもの。
先ほどまで先日の講義の成果を総司に話していた百香里。

「お前耐えられるか?ユカリちゃんが無理して笑っとるんやぞ。
俺が教えたろうと思ったんやけど。やっぱり、気にしてるみたいやし」

間違っていたり分からない所を総司がすんなりと教えたり応えたりするたびに
顔は笑っていても何処か寂しそうにする。前妻の事が頭に過ぎるのだろう。
その複雑な気持ちを言葉にはされなくても理解しているから総司もつらい。

「……」
「あかんやろか」
「いえ。大丈夫です、僕がします」
「堪忍な」

真守もそれが分かるから少し考え頷いた。

「どうしたんですか?2人ともそんな所で」

洗濯を終えて戻ってきた百香里。

「すみません義姉さん、兄さんと少し話がしたいんですが」
「はい。どうぞ。お昼になったらお呼びしますから」

義弟たちには胸のうちを少しだけ吐露した百香里だが総司には言えないでいる。
実際はバレバレの感情だとしても。そんな彼女も可愛いけれど、
完全に解決してやることは出来ないのだから真守を介して教えてあげることにする。
本当はもっと堂々と夫として一緒にしていかなければいけないことなのに。
でも、悲しそうにする妻を前にその勇気は総司には出なかった。弱い男だと自分で思う。

「では沐浴の仕方を教えてください」
「…何やろ風呂に男2人って」

自分でお願いしておいてイザするとなると苦笑すら出ない総司。40と35のいい歳した男が
こんな所で何をしているのか。手には人形。目の前には桶。総司は我に返り複雑な顔。

「兄さん」
「よっしゃ。教えるからちゃんと見とき」
「はい」
「……テンションあがらんけど」

百香里だったら色々と手を伸ばしつつ楽しく出来たのにな。今更な事を思いつつ総司はレクチャーしていく。
真守は怖いくらい真面目に見つめている。やる気があるのはいい事だけど。
つい怖いから睨むなと言ってしまった。

「はい。松前です」
『…あ。出た』
「はい?あの。もしもし?」

その頃。掃除機をかけていた百香里の耳に入る電話の音。急いで取りに行く。
受話器から聞こえた声は何時もと違っていて。幼くて、女の子で。知らない声。
何かを買わせたいわけでも会社関係の人でもない。間違い電話だろうか。

『ふーん…』
「あの?こちらは松前ですが」
『知ってる。若いってほんとだったんだ。じゃあね』

一方的に切れる電話。百香里は受話器を置いてソファに座る。そして考えた。
今の電話がどういうものであるのか。知っているとの言葉からして間違いではなさそう、
だけど誰に代われとかは言われなかった。考えれば考えるほど気持ちが落ち込む。

『何かあった?調子悪いの?』
「そんなんじゃないんです」

そのタイミングで渉から電話がかかってくるから当然元気の無い百香里。
何かあったのかと心配そうに聞いてくる渉。

『昼に帰るから梨香の分も頼みたかったんだけど』
「はい。準備しておきますね」
『いいわ。適当に食って帰る』
「大丈夫ですから」
『よくねえだろ。何か甘いもんでも買ってってやるから。機嫌、直せよ』
「べ、別に怒ってる訳じゃないです。…ちょっと、…あれなだけで」
『アレってなんだよ。まあいいや。あんまカリカリすんなよ。じゃ』
「はい」

怒ってるように聞こえたろうか。でもこの感情は怒りにも似ている。複雑な気持ち。
あの女の子の声はきっと総司の子に違いない。確たる証拠はないけれど。
もしかしたら間違い電話かもしれないけれど。直感的にそう思ってしまったから。
理性で片付けたいのにそれがまだ上手く出来ない自分はやはり子どもなのだ。

「総司さん」
「ん?どないした?」
「…ちょっといいですか」

一通り教えて1人で練習中の真守を置いて風呂から出てきた総司。
それを見計らい百香里がモジモジしながら彼を呼ぶ。

「ユカリちゃん?」

近づいてきた夫にギュッと抱きつく。ほんのり石鹸の香り。

「1人にしないでください」
「えっあっ…寂しかったんか?堪忍な。ずっと居るからな」
「総司さんしか居ないんです。私とこの子には」
「ユカリちゃん。俺も一緒や」

百香里のおでこにキスをして頭をなでる。普段はそんなにも甘えてこない百香里だが、
やはりお腹が大きくなると不安になったり寂しくなってしまうのだろうか。
堪忍な、と優しく言って彼女をソファに座らせる。そこでもギュッと甘えてくる百香里。
そんな妻を膝に座らせて包み込むように抱きしめる。手はギュッと握り。

「私、いいお母さんになれるかな」
「なれる」
「…こんな子どもなのに」
「子どもちゃうよ。リッパな大人の女や」
「そんなこと」

嫉妬する醜い私は娘から電話があったことを貴方に言えない。そんな子どもなのに。

「そうや。昼からウチ行こか。経過報告しとこ」
「……」
「なあ百香里。そんな顔せんといて。百香里が笑ってくれへんかったら俺泣くよ?
ええの?こんなおっさん泣かせて。…なあ、…ええのか?」
「…総司さんはおっさんじゃないです」
「そう言ってくれるんわユカリちゃんだけや。嬉しいわ」

甘えているのか頬を合わせすりすりしてくる総司。百香里はこそばゆくてつい笑ってしまう。
どちらかともなくキスして甘い時間を過ごす。真守とお昼の事をすっかり忘れて。
11時を過ぎたあたりで気づいて慌てて起き上がり冷蔵庫を開いた。あるもので何か作ろう。
すっかり熱中して時間を忘れていた真守も総司に呼ばれて出てきた。

「兄さん何時の間に居なかったんだ」
「気づかんかったお前も凄いな」
「総司さん運ぶの手伝ってください」
「はいー」

3人の昼食。急いで作ったからそんなこったものは作れなくて恥かしそうにする百香里。
でも2人はそれを気にする訳もなくいつものように食事を済ませる。片付けは総司がしてくれて、
百香里は次回の講義の為に買ってきた参考書を眺めている。とても眠そうに。

「義姉さんは本当に文字を見るのが駄目なんだな」
「俺もあんま得意やなかったよ」

睡魔に負けて寝てしまった義姉に毛布をかける真守。

「渉もよく寝てました。僕が貸した参考書を枕にして」
「その癖学年1位とかな。どんな頭しとるんや」
「そんな天才的な能力があっても使わなければ無意味ですけどね」
「あいつなりに考えがあるんやろ。ほんま可愛い寝顔やわ」

毛布に包まって気持ち良さそうに眠る百香里は幼い。10代でも通じてしまうだろう。
つい最近まで19歳だったのだからそれは当然なのかもしれないけれど、
普段はそんな事を感じさせないくらいしっかりしていてむしろ大人ぽく見えるのに。
総司はうっとりとした顔をしながら眠る妻の顔を見つめている。

「コーヒーどうぞ」
「おお。悪いな。そや、昼からウチ行くんやがどやお前も」
「僕は結構です」
「そうか」

真守からコーヒーを貰い視線を戻す。

「義姉さんとアルバムでも眺めて思い出話しでもなさったらどうです」
「なんでや?」
「愛する人の全てを知りたいと思うのは僕だって理解できる感情だ」
「せやけど、あんま見て楽しいもんと違うしなあ」

思い出なんて何も楽しくない、辛いだけ、不甲斐ないだけ。だから過去はできれば伏せておきたい。
彼女に自分が松前家の後継者であることを言えなかった頃のように。それで自分は救われても
百香里には迷惑をかけたし不安にもさせてしまった。そのことは深く反省しているけれど、
何も自分の嫌な思い出を百香里に聞かせるのは気が引ける。

「決断は兄さんがしたらいいですよ。僕はただそう思っただけですから」
「そうか。……けど、ユカリちゃんも知りたいんかな。知ったかて嫌になるだけやろに」
「それは彼女が判断することですから」

そっと百香里の手を握ると無意識か握り返された。柔らかくて暖かい手。
彼女と出会って強く惹かれて交際して、間をおかず短期間で彼女にプロポーズした。
他のやつに取られたりしないかなんて歳がいもなく焦りもあった。それくらい好きで。
嫁に裏切られてもう結婚なんてしないんだろうと勝手に思っていたのに。

「ユカリちゃんに嫌われたら生きていけへんからな」

総司は照れ笑いをして百香里の手にキスをした。

「ごめんなさい私」
「ええよええよ。ユカリちゃん疲れてたからな」
「そ、そうじゃなくて。教材とか読むとつい…眠く」
「俺も寝てくから。気にせんと食べ」

百香里が目を覚ますと時刻は1時を過ぎた頃。昼の準備だってなにもしてないのに。
慌てて起き上がったら傍に居た総司に落ち着けと抱きしめられた。真守はもう自分で作って食べ
総司は百香里が起きるまで待ってくれていた。こんなこと初めてだ。百香里は恥かしそうに俯く。

「あの、総司さん」
「ん?何や?」
「……あの、…その」

朝、娘さんらしき人から電話がありましたよ。
百香里の頭には総司に言うべき言葉が浮かんでいる。

「ユカリちゃん?どっか悪いんか?」
「そうじゃないんですけど。あの。……えっと。…お茶ください」
「わかった」

けど言えなかった。お茶を貰ってそのまま食事を終えた。

「……」
「やっぱり調子ええないんやろ。無理せんでウチにはまた今度いこ」
「だ、大丈夫ですから」
「無理したらあかん。ええから今日はもう大人しく部屋におり」

せめて片付けだけでもと皿を洗っていたら後ろから抱きしめられる。
あの電話の事をふつふつと考えてしまってつい視線が虚ろになっていて。
それが気分が悪いのだと思われてもしょうがない状態だったかもしれない。
総司を前にそのことを言うに言えず百香里はただ頷いた。

「…総司さんも傍に居てくれますか」
「おるから安心してな」
「はい」

言わないなんて意地悪な後妻だと思われるだろうな。なんて罪悪感もあったけれど
総司に抱きしめられて安心してしまって。この温もりの中で居たいと思って。
そのまま自室で夫と2人きりで夕方まで過ごしてしまった。



「んで?こんな所で1人何してんの」
「考え事を」

梨香と夕食をとって帰ってきた渉。先に連絡していて夕飯はいらないと言ってある。
時間は遅くなってしまったけれど、土産は冷蔵庫に入れておけば明日でも美味しく食べられるだろう。
なんて思いながら真っ暗なリビングに入ったらソファに座っている義姉が居て驚いた。

「考え事ってあんた」

もう10時を過ぎているし電気もつけないで1人で何を考える。
渉は土産を机に置いて百香里の隣に座った。

「…私、最低な事をしてしまって」
「最低ねえ。あんたの最低は本当の最低かわかったもんじゃねえから。俺に言ってみろ判定してやる」
「分かってます。絶対最低って言います」
「だから言ってみろって。言ったら水屋の栗饅頭やる」
「えっ…水屋のっ」
「ほら、言ってみ」

落ち込んでいるくせに甘いものの名を出したら一瞬目が輝いた。彼女らしい。
気まずい顔をしながらも渉に促され百香里は語りだす。それは朝の話し。

「…言わないなんて。ひどいですよね。きっと総司さんと話がしたかったはずなのに私」
「あいつ」

ため息をする百香里に対し渉はイラついた顔。あの子はとうとう電話をかけてきたのか。
番号は総司あたりが以前に漏らしていたのかもしれない。緊急連絡先とかなんとか言われて。
今までずっと遮断してきたのに。百香里には会わせないようにしてきたのに。なんでいきなり。

「今日が終わってしまう前に言おうって決意するんですけど。でも、やっぱり出来なくて。
だけど何も言わないで知らないフリをするのも私には出来なくて。それで」
「いいよ。俺が上手く言っといてやるから」
「渉さん」
「そんなに良いか?あんな奴」

20歳も上で暑苦しくて面倒で兄貴面してくる嫌な奴。思い出すだけでも嫌な気分。
チラっと隣の百香里を見るが彼女はまだ落ち込んでいる様子。

「……」
「あんたをそんなに悩ましてる癖に寝てんだぜ。…あの親父並みに性質悪い」
「総司さんは悪くないです。私の為に傍に居てくれて」
「でもあんたはそれだけじゃ嫌なんだろ」

渉の言葉に返事がでない。
この気持ちへの解決策があるのなら百香里だって知りたいくらいだ。
分からなくて惑ってモヤモヤして。だからこうして1人悩んでいた。

「どうしたらいいんでしょうね」
「さあ。とりあえずベッド戻って寝たら」
「そうですね。そうしま…あ、忘れてました。お帰りなさい」
「今更かよ。ま、いいけど。お休み」
「お休みなさい」

総司の元へ戻る百香里。まだ気持ちの整理はつかないけれど。
電話のことは渉が話をしてくれるというからそこは任せて良いだろう。
本来は自分が言うべき所だと分かっているけれど。そっと寝室に戻る。

「何処行ってたん」
「起こしました?」

布団に入るなり総司に声をかけられてビクっと震える。

「トイレかな思てたけど中々戻らんから」
「ごめんなさい」
「気分悪いなら早めに言うてな。悩みとかあっても、早めに言うんやで」
「総司さん」
「ユカリちゃんを悩ませる為に結婚したんと違う。ずっとずっと傍に居って欲しいから。笑ってて欲しいからや」
「はい」
「よし。寝よ」

百香里の頬に軽いキスをして彼女を抱きしめ布団に入る。本当はもっと聞きたい事があるけれど、
百香里から話してくれるまでまとう。怠慢かもしれないがでも、その方がきっといいと思うから。
総司は目を閉じる。百香里も少しオドオドしながらも目を閉じ眠りについた。


「なあ、専務さんよ」
「なんだ。代理殿」

翌朝のリビング。何もなかったように朝食を作る百香里を他所に
新聞を読んでいる真守に小声で話しかける渉。
総司はまだ寝ているのか起きてくる気配は無い。

「俺は家の手伝いなんてごめんだ。どうにでもなればいい」
「そうか」
「でも、たまになら代理になってやる」
「渉…、そうだお前もオムツの替え方を勉強するか?」
「するわけねぇだろ」
「大丈夫意外に簡単だ」
「しねえ。しねえって!持ってくんな妙な人形を!」

人形から逃れ手早く朝食を食べると会社へ向かう。何時もはのんびりと行くのに。
まっさきに出るなんて変な感じがするが自分までそんな講習につき合わされたくない。

「おはようございます専務代理」
「今日さ、社長って忙しい?朝のちょっとでいいだけど」
「午前中でしたら」
「あそう。じゃいいや。予定空けといて」
「はい」

続く

2010/11/20