松前家


休日の朝は百香里に呼ばれるまで起きてこないのだがその日はどうしてか目が冷めた。
まだ意識がぼんやりした中で手を伸ばすが隣に寝ているはずの妻が居ない。
起き上がり大きく欠伸をしてから探しに出る総司。
恐らくは朝食を作っているか洗濯物を干しているか。キッチンに姿は無い。から。

「ここに居ったん。探したで」
「…あ。どうも」

思った通り、彼女は4人分の洗濯物を干していた。
愛妻を見つけて笑顔の総司に対し何となく元気が無いように見える百香里。
朝だからといって不機嫌な子ではない。何時も何があっても笑顔なのに。
そういえばここの所時折表情が曇っている時があったのを今更思い出す。

「ゆっかりっちゃん。何してるの。なあなあ。遊ぼ。遊ぼ」
「…今は結構です」

構わず後ろから抱きしめる。が。彼女の手は止まらない。

「そんな。せっかくの日曜日やし。遊ぼうや。主にえっちな事して」
「そういう気分じゃないんです。真守さんか渉さんのどちらかに」
「よっしゃ行ってくるー…て、男兄弟でそれはないわぁ。やなくて!」
「総司さん煩い」

怖いくらい冷静にビシっと突っ込みを入れられてさすがの総司も黙った。
もしかして怒っているのだろうか。彼女を怒らせるような事をしたろうか。
必死にこれまでの自分を省みる総司。
女関係は自分で言うのも何だが真っ白。クリーンだ。他に何か。節約系だろうか。
必要の無い無駄な買い物をしたとか?いや、ここの所何も買ってない。

「ユカリちゃん。…怒らんといて。堪忍や」
「怒ってないです。今ちょっと話ししたくないだけで」
「は、…話したくない?俺、…そうか、…わかった」

抱きしめていた手を離し劇的に落ち込んだ顔をしてリビングに戻る。
彼女と出会い交際して結婚した今日まで一度だって「話したくない」なんて
そんな台詞言われた事が無い。それほどに百香里を怒らせたのだろうか。
何をしたか全く分からないけれど。

「おはようございます。早いですね兄さん」
「真守」
「どうしたんですか?何処か悪いんですか?」
「ユカリちゃんに怒られた。嫌われた。もう、…あかんかも」
「は?」

椅子に座ってがっくり肩を落としていると新聞を持ってリビングに入ってきた真守。
何時もは最後に降りてくる兄が座って居る事に驚きながらも彼も席につく。
コーヒーが欲しいと思ったがそれよりも兄の話を聞こう。

「何もした覚えないんやけど。…無意識にやらかしたんかな」
「女性の気持ちというのは奥が深いですからね」
「も、もしかしてっ」
「何か心当たりが?」
「モトカレの事しつこく聞いたんがあかんかったんか?!」
「ああ、確かにその手の話は嫌われる傾向がありますね」
「それとも俺が唯らに会ったんが実は気に食わんかったとか」
「…それは、なんとも」

もしも考えられるとしたら理由はこれくらいか。いや、十分大きな理由だ。
ちゃんとお互いに理解しあっていたつもりだったのに。
総司も元彼の事になるとついムキになって百香里に問いただしてしまったし、
彼女だってやはり前妻と娘と会うなんて本音は嫌だったにちがいない。

「せやけど、…どないしたら許してくれるんかな」
「義姉さんの事だから時間が経てば」
「せっかくの日曜日やのにユカリちゃんと距離置いておらんならんとは…」
「渉とパチンコでも行きますか」
「そやなあ。…ユカリちゃんとギスギスするんは嫌や」

先ほどよりも更に落ち込んで老けたようにさえ見える兄。
真守は苦笑いも出なかった。もし本当に義姉がそこまで怒っているのなら
これは1日や2日で済むとは思えない。普段怒らない人なだけに。
怒ってしまったらどうなるか。計り知れない。


「すみません、今朝食持って行きます」
「あ、あの。自分でやりますから」
「大丈夫です。座っててください」

話をしている間に百香里が干し終えて部屋に入ってくる。ビクっとする総司。
真守も何となく緊張してしまう。声をかけてみるが確かにちょっと何時もと違う。
怒っている、とはまた別のもののような気がするけれど。よく分からない。

「あ。何だ今日は俺が最後か」
「おはようございます渉さん」
「おはよ。あのさコーヒーちょうだい」
「渉」
「なんだよ」
「分かりました。真守さんもいれますね」
「あ、いえ、僕は」

そこへ何も知らない渉がパジャマ姿のまま入ってくる。
何時ものようにコーヒーを注文して大あくびをしながら椅子に座った。
新聞なんて読まない。食事が来るまでもっぱらテレビをつけて眺めている。
今もそうだ。元気の無い長兄やソワソワしている次兄などお構い無しに。

「なあ、渉」
「あぁ」
「食べたら一緒にパチンコいかへん?」
「ンな貧乏神みたいなツラしたおっさんと行けるか」

貰ったコーヒーを飲みながら嫌そうな顔。
総司はまたハアとため息をついた。自分でも情けない顔なのは分かる。
でも、それくらいショックだった。10年は年老いた気分だ。彼女は若く美しいのに。

「私でよかったらお付き合いしますけど」
「…ユカリちゃん?」
「ユカりんパチンコなんかすんの?」
「まさか。そんなのしませんよ。でも、総司さんがしたいなら。便乗してみようかなって」
「へえ。よかったな」
「ユカリちゃん」

泣きそうになっていると思わぬ返事。渉の代わりに百香里が一緒に行くという。
これって思いっきりデートではないのか?話したくないんじゃなかったのか?
もしかして洗濯物を干している間に気分が変わった?
総司は良い方へ良い方へ考え表情が明るくなる。真守はやっと少し安心した。
事情をしらない渉は気持ち悪そうにそれを見ていたけれど。

「賭け事といったら夜店のクジくらいで」

あと内緒でやっている懸賞。

「それ賭け事じゃなくね?」
「究極の賭けです。だって100円で小さいガム1個とか最悪じゃないですか」
「夜店自体僕は行った事がないな…」
「あ。すいません」

百香里も席について4人で食事を始める。話題は賭け事。
お金にシビアで常に切り詰めている彼女からは想像も出来ない。
ただ参加しようとするのを見るに多少の憧れはあるようだが。

「俺高校ん時ある。そん時の彼女と2人で」
「そんな時間よくあったな」
「適当にごまかせば何とかなるもんだ。あんたは真面目に門限守ってたよな」

その馬鹿正直さであの頃にしか味わえない楽しみを見逃してきたのか。
次兄らしいと言えばらしい。パンを齧りながらケラケラ笑う渉。
それを不愉快そうに見ながらも怒る事はせず静かにコーヒーを飲む真守。

「私もお兄ちゃんが決めた門限あって。バイト遅くなった時はよく怒られました」
「ユカりんの兄ちゃん怒ってばっかだな。…ああ、あの人もそうだっけ」
「渉。父親にあの人はないだろう」
「いいじゃんもう死んでるんだし。幾らなんでも墓場から這い出て怒鳴ったりはしねえさ」

また笑う渉。

「とか言うて、お前怒られた事ないやん」
「あ?あるさ」
「何やらかした?」
「別に何でもいいだろ」
「女連れ込んだとかそんなんやろ。このエロ坊主め」
「はあ?あんたこそ女」
「渉。その話題はやめろ」
「あ。……、とにかく。コーヒーおかわり」
「はい」

さすがの渉も百香里を前に総司の女関係について笑う事は出来ないようで。
大人しく朝食を食べて部屋に戻っていった。今日はのんびり寝て過ごすとか。
それも新作AVを観ながら。同じく部屋で過ごす真守にどれか貸してやろうかと言って
ふざけるなと激怒されていたがそれでどうにかなる弟ではない。


「ゆ、ユカリちゃん」
「……」
「あ。まだ怒ってる?でも、パチンコ行こうな。…な?」

食器の片づけをする百香里。そこから少し離れた位置で様子を伺う総司。
不用意に近づいたらまた怒られそうで怖くて。でも彼女の傍にいたい。
百香里はあまり語ってくれない。それが不安で仕方ない。

「ねえ総司さん」
「なに?なに?」
「渉さんが怒られた理由ってなんだと思います?」
「さあ。あんまりあの頃の弟ら見てへんかったし…」
「女性遊びで忙しかったんですよね総司さんは」
「そ、そんな事ない。…ないから。…ないってば」
「どんどん声が小さくなってますけど」

やっと声をかけてくれたと思ったら渉の話題で内心舌打ちしたけれど、
ここでマイナス面を見せてはまた怒らせると普通に返事を返す。
それでも結局は自分に不利な会話になってしまうけれど。
今は百香里だけ。百香里しか見てない。そう訴える。言葉と瞳で。

「あいつは器用で要領も良かったし、何より親父が可愛がっとったからな」
「そんな感じします。不真面目に見えてもやることはちゃんとしてくれるし。
だから不思議に思ったんですよね。怒られるんて相当な事でしょう?」
「そんなに知りたがりやっけ。ユカリちゃん」
「総司さんの事掘り返していいんですか?私、そういうの気にするタイプなんですけど」
「あ。あかん。…今の僕を見てや」

わかってますと言って百香里は作業を再開させる。
総司は少し離れた場所からずっと見つめていた。時折会話をしながら。
最初は怒らせたとびくびくしていたけれど何となくそれも薄れてきて。
片づけを終えて出かける準備をする頃には何とか何時もの夫婦に戻る。

「なんだか緊張します」
「大丈夫。楽しんでこ」
「総司さん」
「ん?なに」
「…ううん。手、繋いでください」

部屋を出ると手を繋いで通路を歩きエレベーターを降りて駐車場へ。
パチンコ屋へデートというのはどうなんだろう。百香里にはよく分からない。
でも少しだけ興味があった世界だから覗いてみたい。
総司に説明をしてもらいながら兄弟が行くというパチンコ屋へと向かう。


「よっしゃ。はじめようか」
「……」
「ユカリちゃん?やり方わからん?」
「……が、がんばります」
「うん。がんばろな」

予め時間を決め、使う金額も設定しているから破産する心配はないけれど。
やはり心臓に悪い。このパチンコの玉1つがお金。お金がパラパラと穴に落ちていく。
そして真ん中の穴に入らないと二度と戻ってこない。ああ勿体無い。
と、思ったら賭け事は楽しめない。分かっているけど。やっぱり勿体無い。

「総司さん」
「ん?」
「……も、もう勘弁してください。…もう、耐えられません」
「そんな消耗したん?!まだ10分も経ってへんけど」
「た、…たのしかったです…とても」
「真っ青やで。向こうの休憩室で休んどき。こっち終わらせてから行くわ」
「はい」

お金は総司が出してくれたしイメージは万全。ルールも教えてもらった。
敗因はこのケチ根性。最終的に百香里にはパチンコの玉が小銭に見えた。
額に汗をかきながら言われた通り比較的静かな休憩室のソファに座る。
傍で飲み物も買える様だがとてもそんな気分にはなれない。水で結構。

「ユカリちゃん大丈夫か」
「総司さん。…すいません。ちょっと気合入れすぎたかな」
「何か飲むか?」
「水でいいです。公園あたりの」
「そ、そんなん腹壊すで。待ってて」

遅れて総司が来て自販機でジュースを買ってくれた。
それを一気に飲み干し一安心。そのまま車に乗り込む。
早々と戦線離脱したけれどあれはあれで楽しかった、ような気がする。
ただもう一度やれと言われたら拒否するけれど。

「私にはやっぱり夜店のクジがお似合いみたいです」
「夏になったら2人で祭り行こうな」
「はい。総司さんも行った事あるんでしょう?当時の彼女と」
「いやあ。売る側で行った事はあるけど。楽しむ側では無かったなぁ」
「いいですよそんな気を使ってくれなくても。私も行きましたし」
「元彼と?」
「はい」

夏はまだ少し先の話ではあるが高校生の頃の自分を思い出す。
夏祭りの夜、彼に見せようと母親に仕立ててもらった浴衣を着てワクワクしていた。
といっても近所のささやかな祭りで彼にりんご飴を買ってもらいクジを引いて終わっただけだ。
それだけだとしても口に出したら総司が怒りそうだから胸にしまっておいた。

「意味わからん勉強ばっかさせられてた。あの家におったら祭囃子も花火の音も何もせえへん。
ええ歳になっても親父にたてつくことが出来んかった。弱虫な奴やで、ほんま」
「総司さん」

赤信号で止まっている間。昔を思い出しているのか少し遠い目をしている彼。
百香里はかける言葉が見つからずただその横顔を見ているだけ。
要領が良かった渉、真面目一直線の真守、そして悩みながら何も出来ない総司。
そんな兄弟の今も代わらぬ図式が百香里の頭の中に浮かんだ。

「親父が海外とか長期出張とかで居らん間にハメ外したり女の子と遊んでも
どうせ戻ってきたら一緒や。そう思ったら何も楽しなくて、いっつもつまらんなぁって思ってた」
「……」
「いっときの凌ぎで遊ぶよりちゃんと恋愛して心から楽しんで遊んでる方が羨ましい。
やから今、めっちゃ楽しい」

さりげなく百香里の手を握る総司。そっと握り返す百香里。運転中だから
視線は前を向いているけれどギュッと握られた手は大きくて暖かかった。

「うーん。これもある種賭け…」
「そうなん?」
「総司さんはどっちがいいと思います?」
「えー…どっちも同じに見えるんやけど」
「微妙に違いますよ。そう、この微妙な違いを読み取ってよりよい商品を安く得る…」

渋い顔をして睨んでいるのは夕飯に出そうと考えているカボチャ。
でもって今日は野菜が安い日らしい。だから少し遠出してこの店を選んだ。
総司には違いがさっぱり分からないが彼女には1つ1つ別のモノに見えるらしい。
手にとってあらゆる方向から眺めてはどれにしようか考えている。やたら長い。
暫くしてやっと1つ選んでかごに入れた。奥様はご満悦な顔。

「ユカリちゃんユカリちゃん。魚食べたい。こーてええ?」
「渉さんと真守さんの分も買ってくださいね」
「あいつらの分も?」
「1人だけ買うのは不公平ですし、お2人とも魚好きですから」
「なんや、発想がオカンやね」
「そうですか?」

長い買い物を終え、無事に予算内に収まったレシートを見てご機嫌な百香里。
やはり彼女は笑顔が一番似合う。総司は隣で軽く微笑む。
生ものを積んでいるからあまり遊べない。このまま真っ直ぐ家に帰る。

「昼飯はどないしよか」
「皆さん家に居るみたいですから帰って何か作ります」
「せっかくの日曜日やしユカリちゃんも休んだ方が」
「そんな事ないですよ。ジッとしている方が変な気分だし。簡単なものにしますから」
「そうかあ?分かった」

外食もいいと思っていた総司だが百香里に笑顔で言われては反論出来ない。
その後も他愛も無い会話を続けながらマンションに到着。車を駐車場にとめ
総司に荷物を持ってもらいながらエレベーターへ向かう。

「総司さん」
「ん?なに?」
「私も、今、…楽しいです。すごく」
「ほんまに?良かった」

エレベーターが降りてくるのを待っている間にボソっと彼女は言った。
お互いに少し頬が赤らんで幸せな気分。
この感じだと昼からはもっと甘い時間が過ごせそうだ。総司は表情を緩ませる。
朝はどうなる事かとヒヤヒヤしたけれど。部屋に戻ると百香里はさっそく昼食の準備。

「お帰りなさい。で、どうでした?」
「おお。…まあ、やっぱりパチンコはユカリちゃんには早かったわ」
「だと思いました。でも、何時も通りでよかった」

総司は百香里を見つめていたかったが恥かしいと言われ椅子に座る。
そこへ真守が入ってきて自分の席につく。チラっと百香里の様子を見て、
続いてご機嫌な総司を見て2人が上手くいった事を察した。

「お前も嫁さんもらわんとなあ」
「お惚気は結構です」
「心配してるんやんか」
「そんなニタニタした顔で言われたくないですよ」

死にそうな顔をしていたのに今は終始笑ってばかりの兄に苦笑い。
本当にあの人に骨抜きだ。一番年下なのに今や松前家の裏の実権を握っている。
それに抵抗感を感じたのも今は昔。
真守は総司のお惚気を聞き流しながら持って来た雑誌を広げる。

「珍しいなあ。お前がそんな週刊誌みたいなん」
「多少のゴシップは必要ですよ。話の種にもなる」
「そういうもんか」
「それにこの雑誌には懸」
「ケン?何それ」
「……、いえ。それより義姉さんを手伝ってきたらどうですか」
「おお。そうしよ〜」

偶然ではあったが義姉から教わって何となく自分でも始めていた懸賞。
欲しいものほど中々当たらず次こそはと熱が入ってしまって。
熱中とまでは行かなくてもポツポツ雑誌を買っては応募している。
これもある意味賭け事だ。渉に笑われそうでとても言えない。総司にも。

「……先週は万能スポンジだった。今度こそ」
「何やってんの」
「っ……、渉か。行き成り話しかけるな」

百香里の元へ去った総司を確認して雑誌を見つめていたら
今度は覗き込むように見て来る渉。慌てて雑誌を閉じる。

「スポンジがなに?」
「お前には関係ないだろう」
「ムキになっちゃって。ま、いいけど」
「お前まだパジャマなのか」

席につく渉は退屈そうにテレビをつける。だらしなくパジャマ姿で。
髪の毛もセットしていない様子でボサっとしている。
普段は誰よりもオシャレな男だが予定の無い休日はかなりだらけている。

「家でくらいいいだろ」
「僕たちはともかく、義姉さんの前で」
「渉さん。何時までパジャマなんですか、着替えてください」
「はーい」
「渉お前」
「どうせ注意されんならあっちのがいいだろ」
「子どもか…」

立ち上がり大きく背伸びをして着替える為にまた部屋に戻っていく渉。
真守の注意を聞かないのは前からだが百香里の注意にはやたら素直。
どうせ戻るなら最初から着替えて降りて来いと真守は思わずに居られない。
何て考えている間にも百香里と総司が料理をテーブルに置く。美味しそうな昼食。
朝も昼も一緒に食べるというのは休日でも珍しい。


「ユカリちゃん。昼からは部屋でのんびり、ベッド辺りでのんびりしよな」

食事を終えて片づけをしている彼女に今度は堂々と後ろから抱き着いておねだり。
もう大丈夫だとうと安心しきっている総司。きっと彼女も笑顔で頷いてくれる。
夕飯の買い物だって終えたのだから。

「すいません昼から出かけます」
「ええええ!?」

なんでやねん…とごく小さい声で突っ込みを入れる。
出かけるなんて聞いてない。今言われた。何処へ行くというのか。
さっきまで外に居たのだからその時に行けばいいのに。

「少し悩んでたんですけど、やっぱり行って来ます」
「何処いくん?俺も行く」
「すいません、1人で行きます」
「あかん。朝からボロボロなんやで。1人で待っとれん」
「待ってくれないと怒りますよ」
「わかった。でも、はよ来てな。何かあったら連絡やで?」
「はい」

行かせたくない。行くなら一緒に行きたい。けど彼女は拒む。
そこまでするには理由があるのだろう。怒らせたくないというのもあるけれど、
総司はやむなく身を引く。彼女が片づけを終えたら正面から抱きしめてキスした。
されて嫌がるそぶりは無い。ギュッと総司に抱きついてキスに応える百香里。
むしろ心地良さそうにすら感じた。だからか総司は少しだけ安心できた。

「義姉さんが1人で?」
「やっぱり何かあったんやろか。…夫婦やのに俺には何も話してくれへん」
「何かあっても自分でどーにかしようとするタイプだもんな」

彼女を見送りリビングに戻ると弟たちが寛いでいた。
真面目な顔をして雑誌を見つめている真守、ソファに座りテレビを観てゲラゲラ笑う渉。
椅子に座るとため息をつく総司。事情を話すと弟たちはそれぞれに考え始める。
彼女が何か悩みを抱えているのなら取り除いてやりたいけれど、それが何か分からない。

「俺が何もできへん男やから、信頼してくれてへんのかな」
「図体はでかいのに中身は可哀そうだからな」
「渉、言いすぎだ。そんな事はないでしょう、義姉さんは分かってくれているはず」
「でねえとこんなオッサンと結婚するわけねえもんな。あはは」
「笑っているが彼女に何かあってもいいのか渉?」
「そうは言ってないだろ。…俺なりに心配してるんだから、ほっとけ」

昼下がり、何が悲しくていい歳した男3人がリビングに集まりこんな話をしているのか。
総司は早く帰ってこないか心配しながら携帯を眺める。連絡はこない。
そんな兄の様子を気にしながら弟たちは雑誌を見たりテレビを観たりして時間を潰す。
彼女に何が起こったのか。それを知るすべは今の所誰も持っていないのだから。
テレビの音だけが流れる部屋に着メロが響く。3人の視線は携帯。

「もしもし!……何や、…千陽ちゃんか」

そして落胆。

『休日にすみません。でもそこまで落胆しますか?こっちも仕事なんですが』
「ああ、堪忍。そういう意味やなくて。今電話待ってる所やったもんで」
『そうでしたか。では手短にお話ししますので』
「真守に代わるわ」
『はい?』
「今は何を言われても頭に入ってこんもん。大事な話なんやろ?真守に言っといて」
『はあ』

事情を知らない千陽は不思議に思いながらも真守に伝言をする。
恐らく専務のすぐ傍に社長が居るのに。妙な伝言だ。そんな手間な事をして
怒るかと思ったが専務もいたって冷静に話を聞いてくれる。変な日。
秘書からの電話を切ると携帯をテーブルに戻す真守。


「ただいま戻りました」

その愛しい声を聞いたのはもう何年も昔のような気分。
実質3時間ほどの別れだったが総司には途方も無く長く感じて。
ドアを開けて入ってきた百香里は手にアイスの箱を持っていた。

「百香里愛してる!こんな俺やけどすてんといて!いやや!」
「そ、総司さん?」

彼女の顔を見るなりギュッと抱きついて叫んだ。それでどうなるかなんて分からない。
でも何もせずにはいられない。ただ只管に百香里を手放したくなくて。
突然抱きついてきた夫に戸惑いながら百香里はアイスをテーブルに置いた。

「義姉さん、至らないところは何とか僕がフォローしますから」
「そうそう。あと金だけはたんまりあるし」
「渉それはフォローと言わない」

そしてやたら真剣な顔をする弟たち。
百香里の居ない間に妙な空気が流れていたらしい。
それもたぶん全部自分が何も言わなかったからだ。

「ごめんなさい、ご心配かけて。そうじゃないんです」

3人に見つめられ少し照れながら百香里はすいませんと頭を下げる。
こんなに心配してくれるなんて正直思わなかった。
彼らに心配をかけたくなくて自分の心の中で解決しようとして。
ずっと密かに葛藤して。決意をして。それがこの結果。

「ユカリちゃん」
「実は、その。…今まで病院に」
「何処か悪いんか!?隠したらあかんやんかそんなん!ユカリちゃんの為やったら」
「落ち着いてください。私は病気じゃないです」
「なんや…」

叫んで安心して疲れて。ヘナヘナと力なく椅子に座る総司。
もしかして母親の付き添いかなにかか。だったら何時もと様子が違ったのも納得できる。
最近またあまり調子がよくないようだったから、見舞いに行ったりして心配していた。

「さ、産婦人科に」
「え?」
「それって」
「もしかしてユカりん」

もう一度彼女の顔を見ると恥かしそうに頬を赤らめている。
椅子に座っていた総司はシャキンと立ち上がり彼女の傍へ。
視線は彼女の顔からお腹へ。

「で、…できた?」
「自信なくてどうしようか悩んで、それで」
「せやけど何で1人で行くん。俺も一緒に行きたかった」
「違ったらお互いに気まずいし。怖くて。…ごめんなさい」

以前妊娠したかもしれないと大げさに騒いで総司も喜んでくれて
さっそく検査薬を買ってみたら実はなんでもなくてちゃんと月のモノが来た。
あの気まずさは今でも百香里にとってはトラウマだ。
彼を二度もガッカリさせたくなかったし自分も辛いのは嫌だった。

「ユカリちゃん」
「私が、臆病だっただけなんです。ほんと、ごめんなさい」
「それで何ヶ月なん?」
「…3ヶ月」

静まり返る室内。百香里はまだ恥かしそうに視線を泳がせる。
総司と沢山愛し合っても中々授からず半ば諦めていたのに。
悩むのはやめてのんびり考えようと話し合っていたばかりなのに。
神様というのはどうしてこうタイミングをズラしてくるのだろう。

「ユカリちゃん」
「はい」
「次は一緒に行こうな。絶対や」

百香里の頭を撫で椅子に座るように指示する。
そして土産のアイスを食べることに。何時もは彼女が皆の皿を出したり
スプーンを出すが今回は全部総司がした。弟たちも協力的。

「妙な感じだよな」
「そうだな。これから2人は大変だろう」
「……」
「どうした渉」
「この家にガキが増えるのかと思うとさ」
「何を今更。お前も似たようなものだろ」
「言うようになったじゃん。この懸賞ヲタク」
「なんだと」

にらみ合い喧嘩しようになる2人だが今日はすぐにそんな気は失せた。
ずっと待ち続けていた義姉の懐妊。それが分かった日にわざわざ場を乱すことは無い。
片づけをかって出た真守とそれに引き込まれた渉は大人しく皿を洗った。

「心配です」
「何もかも初めてやからな。せやけど大丈夫、俺に任せて」
「なにせ経験者ですものね」
「ちょっと棘あるなあ」

休憩しようと言われてベッドに座る百香里。その後ろには総司が座り
後ろから彼女を抱きしめる。さりげなくお腹をなでながら。
確かにこの幸せは二度目だけど。
総司は百香里の頬にキスをして抱きしめる。

「心配なのはそれだけじゃないんです」
「なに?何が心配やの?」
「…総司さんえっち出来ないからって外に行かないか」
「行くわけないやん。ユカリちゃんが居るのに」
「鬼の居ぬ間に洗濯やら羽を伸ばすのがお好きなようですから」
「ユカリちゃん目が怖い」

思いっきり睨まれている。何を言っても今は信頼が無さそうだ。
まさかこうなるとは思わなくて過去の女の話なんかもチラホラしてしまって。
今更後悔するけれど言ってしまった物はもうどうしようもない。これからの態度で
愛を示すしかないだろう。堪忍してやと苦笑いしながら百香里を抱きしめ直す。

「この子ともども大事にしてくれないと許しませんからね」
「当たり前やん」
「家族に報告しなきゃ」
「そうやな。お兄さん怒るやろか」
「かもしれませんけど、頑張ってください」
「任せとき。って、ユカリちゃん冷たいわー」

頬を寄せ合って笑う。本当はまだ百香里には幸せの実感が薄い。
医者に言われても母子手帳を見ても。お腹をなでてみたって。
でも時が経てば、膨れてくるたびに実感できるだろう。待ち続けた幸せを。

「この子には自由に好きな事させてあげたいです」
「そやね。…俺も、それがええと思う」

お金で苦労させたくない、会社の将来や勉強ばかりを押し付けたくも無い。
夫婦は口にはしないけれどお互いに子の事を考える。
まだ男か女かも分からないわが子。どちらでも愛しいにかわりないが。

「眠くなって来たのでこのまま寝てもいいですか」
「ええよ。ちょっとおっぱい揉んでええ?」
「もう」
「あ。母乳出るようになったら」
「総司さん」
「すんません」

ベッドに横になる百香里。さりげなく総司の手が胸を揉むけれど、
その体制のまま2人眠ってしまった。今日は体力は使わなかったが
精神的に落ち込んだり盛り上がったり感動したりヒヤっとしたりして疲れた。



「カボチャ煮たいだけです」
「俺がする」
「総司さん気遣ってくれるのは嬉しいんですけど大丈夫ですから」
「あかん。俺がする。ユカリちゃんは座っといて」
「おっさんの手料理なんか食いたくねえぞ」

夕飯の準備をしたい百香里だが総司はキッチンに入れてくれない。
何故か百香里の使っているエプロンをつけてカボチャを持っている。
料理をさせてくれない彼に何の冗談だと渉が様子を見に来た。

「それやったら20代の若者も作ればええやんか。渉も手伝え」
「げええ」
「お前はカボチャ係りや」
「ふざけんなよ」
「これからは出来るだけユカリちゃんの手助けをするんやで!」

1人熱くなっている総司。呆れる渉。

「総司さん」
「兄さん張り切ってるな…無駄に」
「あ。真守さん。止めてください、料理が出来なくて」
「僕が言って止まるものなんてこの家にはありません」
「そ、そんな」

母直伝の美味しいカボチャの煮つけを食べてもらいたかったのに。
とても渉に煮付けなんて作れるとは思えない。逆に怪我をしそうでハラハラ。
そこへ真守が入ってくるが止めてくれる気配はなくソファに座った。

「クソ!カボチャ硬ぇ。しょうがねえ叩き割るか。何か棒とかねえ?」
「棒か?それやったらそこの使えや。あと飛び散るから気ぃつけや」
「おー…なんか燃えるー」

棒を振りかざす渉はキッチンにあるまじき光景。

「危ないですからやめてください、キッチンを破壊しないで!」
「せーのー」
「あー!渉さんだめー!」

結局最後は百香里が料理する事になる。
気遣ってくれるのは嬉しいがそのやさしさが怖い。
それはこれからどんどん加速していくのだろう。

「渉の叩き割ったカボチャ美味いやんか」
「案外カタチになってるだろ」
「初めてにしては出来たほうじゃないのか」
「…味付けたのは私ですけど」

ありがたいけど苦笑いが止まらない百香里であった。

おわり


2010/05/22