しんせいかつ


「教授。妙に嬉しそうですけど、何かいいことありましたか」
「え?そう?」

雅臣は助手の言葉に我にかえる。そうだ、ここはまだ自分の家じゃない。
大学の自分の研究室だ。対する助手は自分の世界に入り込んで帰ってこない
浮ついた上司にいつもの様に冷めた視線を送る。
最近特に感情の起伏が激しく朝から落ち込んでいたり妙に嬉しそうだったり。
言葉はおかしいけれど、まるで恋でもしているかのような。

「噂好きな学生たちに妙な噂たてられますよ?」
「わかった、注意する」
「何か夢中になれる研究材料でも手に入れましたか」

殿山がこの人の助手になってそこそこ経つが未だに人物像がつかめない。
悪い人ではない事は確かだけど。一筋縄でもいかない。
聞いた話では家は裕福だったそうだけれど、その辺のコネは一切使わず
実力で若くして教授になった男。なので相当なキレものだと思っていた。

「研究、か。いや、そういう訳でもないんだけどね」

そう言う顔はまたニコニコ。よほど良い事があったらしい。
どんな研究をしようと何をどうしようと教授の自由。
ただ助手をフル稼働するような2日も3日も眠れないような
そんなハードな研究だったら覚悟が必要なので大いにに気になる。

「興味をもたれるのは結構ですが程ほどにしておいてくださいよ?」
「殿山君は彼女なんて居るの」
「また突拍子も無い質問を。居ませんけど」
「へえ。容姿はいいと思うけどね。不思議だね」
「教授に言われても…。さらっと嫌味な事を言わないでくださいよ」

自分が男だからいいものの、女の子だったら完全なセクハラ発言だ。
こんな何を考えているか分からないフワフワしてる人が学部長に気に入られていて、
他の大学からも来ないかと誘われるほど優秀な論文を書き、IQも非常に高い。
初めの頃は別の教授と間違えているんだろうと思った。

今でもたまに思う。何とかと天才は紙一重、と。

「どうしてそう思うの?」
「……また始まった。先生の知りたい病」
「もしよかったら」
「先日食事をなさった東城教授が夕食に先生を誘ってましたよね。どうしました」

これ以上この話題はやめようと違う話題をふる。

「夜は無理だよ。家政婦さんが怒るから」
「家政婦?家政婦なんか雇ってるんですか」
「まあね」
「だったら東城教授をご自宅に招待なさったらどうです?」
「無理だよ」
「でも家政婦居るんでしょう?その人に任せればいいじゃないですか」
「無理なものは無理なんだ。だいたい、私は自宅に人を呼ぶのは好きじゃない」

さっきまでののほほんとしただらしない顔は何処へやら。
悪い事を聞いてしまったらしく不機嫌な顔に。あと20分ほどで講義があるというのに。
一旦機嫌を損なうと中々戻らない。
高い評価を与えられながらもさほど大学内外で有名にならないのは
この社交的とはいえない性格と、面倒だとか不快だと思ったらどんな権威の前でも
躊躇わず発言したりさっさと帰ってしまう自由人加減。
これで本人は穏便に過ごしていると思っているから、本当にこの人は天才なのかもしれない。
振り回される身としては命が幾つあってもたりないけど。

「先生、そろそろ」
「ああ、そうだね」

とりあえず、何があっても講義だけはしっかりと行うからまだ助かっている。……のだろうか。


「ちょっとちょっと、何?嬉しそうな顔しちゃって」
「え?そう?」
「何かいいことあったんでしょ。亜美ってさ、すぐに顔に出るから」
「そ、そんな事。……ないけど」
「白状しちゃいな。何?何があったんですか亜美チャン」
「茶化さないでよ」

昼休み。自分で作った弁当に手を付けずボケーっと空を眺めていたつもりだった。
だけど、前に座っていた由香からしたらニヤニヤしていたのだそうだ。
ちょっと恥かしい。
視線を弁当に戻して食べ始める。由香の質問には曖昧に返事して。

「うちらもあっという間に3年だね。あんた進学?それとも就職?」
「……就職、かな」
「そっか。私はどうしようかな。すぐ働くってのもね。
進学かな。いや、しても別にやりたい事ないんだけど。
まあ、適当に大学行ってから考えるって手もあるしねー」
「高い金払ってまで遊びに行くなよ!もったいない!」
「ごめん。そんな怖い顔しないでよ」
「……こっちこそ、ごめん」

由香に罪は無い。分かっている、でも気がついたら声に出していた。
彼女も亜美が大学へいきたくても家に余裕がない事を知っているから
怒鳴っても怒りはしなかった。
気まずい空気をかえる為に昨日みたドラマの話をふって話題を変えた。

放課後。

「何だよ」
「もうすぐ引越ししちゃうんだし。一緒に帰らない?」
「は?意味がわからない。何でお前なんかと」
「いいじゃない。ね。恒も誘ってさ」

2年生の教室へ向かう。
双子フィーバーもだいぶ収まってきたとはいえ、まだ女子の視線が痛い。
不機嫌そうに慧は帰る準備を進めている。今週末には引越しをして屋敷から出て行く。
一緒に住めないと雅臣に言われた事とはいえ、その怒りを亜美に向けているように見える。
その所為か最近また刺々しく風当たりが強くなった。

「別に引越したって俺たちの目的は変わらないしお前とは敵同士だって言ったろ。
馴れ馴れしくするな」
「お母さんが会いたがってるんだけどな。家に招待してくれないかって頼まれたんだけどな。わかった。敵の母親も敵だものね、お母さんにそう伝えておくね」
「敵はお前だけだろ、お前の母親は関係ないだろ。何でそんな酷い事言うんだよ」
「事実でしょ。ま、あんたたちはおじさんをアメリカに連れて行けたらいいだけなんだもんね」
「……」

意地悪を言っている自覚はある。2人とも母にはとても懐いているから。
一緒にクリスマス用の料理を作っている時は年相応の可愛らしい少年の
笑顔を見せていたから。だけど、亜美だってそんな言われ方をしたら
悲しいし腹立たしいし。嫌味の1つは言いたくなる。

「慧?どうしたの」
「……帰るぞ恒」
「う、うん」

遅れて恒。自体が飲み込めず呆然としている。
キョロキョロしている弟の手を引っ張って慧は先に帰った。
その後姿は何処か寂しげで。何か言おうと一歩踏み出したけれど、
何を言うべきかわからなくて。
暫く見つめていたけれど、亜美も踵を返して学校を出た。


つづく


2008/10/06 : 加筆修正