甘える
社長夫人が突然会社にやってくる事は珍しくない。だからといって奥様を歓迎するため
社員が駆り出されることはなくて、むしろ気にしないでくださいと言われて。
社長室に一直線に向かっていって、社長に要件だけすませてさっさと帰ってしまう。
「待ってユカりん」
「はい?」
「ちょっといい」
今日もちょっとした用事で総司のもとへ行き、引き延ばそうとする夫を制して
社長室を出てきた百香里。難なく1階まで降りて、出口へ迎えって歩いていたら
小走りで近づいて来た渉。
言われるままに彼について行って、人気のない静かな場所で立ち止まる。
「どうかしました?」
「今日の夜さ。どーーしても観たい映画あんだ。チケットもあるし、いいかな」
「映画館でですか?でも、夜ですよね?どうでしょう。夜遅すぎると……」
「ほらこれ。先行試写会のチケット。夕方からで時間微妙なんだけど、マジで絶対喜ぶから」
「それは、まあ。そうでしょうけど」
「お願いしますっ。な?頼むよ。良いって言ってよ、義姉さん」
「そ。そんな。……、わかりました。じゃあ」
恥ずかしそうにしながらもチケットを受け取り、会社を出ていく百香里。
渉はそれを見送って。ご機嫌で自分の部署へ戻ろうとしたら、
別の部署に配置された同期の男に見られていたようで。何やら含みをもたせた
顔でニヤニヤとしながら近づいてきた。
「今のってあれだろ?噂の社長夫人様」
「そうだけど」
「若いとは聞いてたけど、あれは女子大生くらいじゃないか?社長もやるなあ」
この男は渉が兄についていい印象をもっていない事を知っている。
だが、面倒な場面を見られたかもしれない。と渉は嫌な顔をした。
「何でもいいだろ。別に」
「そんな顔すんなって、ただ、こんな人気のない所で若い義姉とコソコソしてるからさぁ。
もしかして、あの派手な彼女と別れたのかと思って」
「何言ってんだお前?意味がわからないんだけど」
「デートに誘ってるのかと思ったって事。言わせるなよなぁ」
「あの人を?俺が?冗談じゃねえよ。あれは……」
「あれは?」
「……、お前には関係ない。あいつの嫁ってだけだ」
これ以上付き合ってられないと渉はさっさとその場から立ち去る。
男は特に何も言ってこなかったが。
もしかしたら、引き続きニヤニヤしていたかもしれない。
しばらくはその話をされるのかと思うと今からもう憂鬱。
「どうした渉。あのチケットは無事に取れたんだろ?それを義姉さんに」
「なあ。俺は義理の姉に手を出すようなそんな男に見えるか?」
「は?」
部署に戻るなり、自分が行かなくても良かった仕事を引き受け専務室に向かう渉。
真守は今日も真面目に机に向かい膨大な書類とPCデータと睨みあっていた。
その彼の前に書類を提出して、何時もなら悪態をついてさっさと退席するが今回はせず。
「あんただったらそんな疑われないんだろうな。……どうせ俺はそんな男だ」
「どうした機嫌が悪いな。義姉さんのことでなにか言われたのか?」
「俺が映画のチケットあの人に渡したの見てたやつに、口説いてると思われた」
「……」
「そんな事会社の玄関口でするかよ。まあ、家でも外でも何処でもしねえけど」
「……、っ、……あははははっ」
「笑うなよ!どうせ、どうせそんな男だよ俺はっ」
「いやいや。すまない。そうだな。お前はそんな事はしないな。
いやしかし、義姉さんを口説く…、そうか、そう見えるのか。あははっ」
よほどツボにはいったのか真守は涙目になるくらい笑っている。
渉は不愉快なのでさっさと出ていきたいが、書類には専務のハンコが必要だ。
もちろん、それを放棄して出ていくことも出来るけれど。
なんとなく一方的に笑われっぱなしで出ていくのも逃げるみたいで嫌だから。
「なあ。俺、準備あるし今日は定時ちょっと前に帰る。いいだろ」
「ああ。良いよ。笑って悪かった」
「別に。ここにハンコくれ」
「わかった。兄さんのハンコは」
「自分で行く。……、そんな面白かった?弟がちょっと落ち込んでたのにさ」
「すまない。あまりにもありえなすぎて。お前だって僕だったら笑うだろ」
「しばらくはそれで笑ってるだろうな」
「まあ、そういうものだ」
「そうかよ」
ハンコをもらって部屋を出て、時計を見る。あとまだ2時間はお仕事タイム。
でもちょっと早めの帰宅を許されたので、そこは有意義に使うことにする。
「な、なんや。そんな怖い顔して」
「ここにハンコくれ。あと俺今日司と映画行くからさ。30分早く帰る」
「え?え?え?……え?」
「なんだよこの距離でも聞こえないのかよジジイ」
「いいえ、聞こえてます聞こえてますからっそんな怖い顔せんといて?お願いですぅ」
社長室に入るなりドンと書類を置いてハンコを促す。
総司は毎度のことながら本気で怖がって涙目になりつつ、映画の事も
早めに帰ることも了承すると頷いた。
「あのさ」
「すんませんっ」
「いや。まだ何も言ってないから。……今日、下でユカりんにチケット渡してお願いしたんだ。
あの人が駄目って言ったら映画駄目だろ。だから。先に聞いたんだ」
「ええって言うたやろ?」
「言った。けど。それ、同僚の奴に見られてさ。なんか、俺がユカりん口説いてると思われて」
別に黙っててもいい事。ではあるけれど、もしどんなルートから社長の耳に入るか知れない。
今更疑われる事はないと思うが、念の為。あと、長兄はどんなリアクションをするのか?
という興味もあって聞いてみた。
「そうなん?まあ、一番歳が近いでなぁ。見た目的にそう思われるんやろかね」
「いや。どうせ俺が女にルーズだからとか、そういうイメージで」
「なんやそら、失礼な話やな。減給したろか」
「いいよ。……、あんたは笑わないんだな」
「まあ、ちょっとはオモロイけど。お前くらいの若造がいつユカリちゃんを浚うんか
不安で、笑い話しにできるほど心の余裕がないちゅうのがデカイかなぁ」
「あの人はあんたの前の女と違うと思うけど」
「それは。……まあ。な。映画、楽しんで来たらええよ。司を頼んだで」
「ああ」
複雑な表情の総司を置いて渉は仕事を終えると自分の席へ戻る。
乱暴に扱い書類が折れて、
専務のハンコは地震でもあったのだろうかと思うくらい微かに動いていて
社長のハンコは若干枠からずれていた。
「おかえりユズ!待ってた!!」
「おう。ただいま」
30分早く会社を出て、家に帰ると玄関で司が待っていてにっこり微笑む。
これはもうママから映画の話を聞いている顔だ。
一緒にリビングへ向かうと百香里が夕飯の準備中。
「映画は18時からですよね。早めにご飯を食べちゃってください。
お酒は飲まないですよね?」
「ああ。飲まない」
渉は軽く会話してから自室へ戻り、私服に着替える。
「ユズっ」
「んっ?なんだよ急に。抱っこか?」
再びリビングに入ると元気よく司が抱きついてきて、渉は抱っこする。
そこでもまたぎゅーっと甘えるように抱きついてきた。
とても甘えん坊な子ではあるけれど、これは何時もとちょっと違う。
「ママからね、お話聞いたの。だから。うれしいの。ありがとうユズっ」
「そうかそうか。じゃあ俺に感謝して人参もしっかり食うんだぞ」
「うっ……うんっ」
そのまま椅子に座らせてママのご飯を食べさせる。今日のメインはハンバーグ。
付け合せには司が苦手とする人参。司はちょっと困った顔をしたが、でも勢いよく食べた。
それを見つつ、渉も座って同じ食事をとる。
「ほら司。落ち着いて食べて、服に落として汚さないでね」
「ママ。あの服」
「うん。もう用意してるから。ほら。よそ見しない」
「あの服って?」
「映画に合わせて服を選んでるんだよね司」
「へえ。良いじゃねえか」
何時もは家族皆が揃わないと嫌だとごねる司だが、今日は映画の時間がある。
だから渉と2人でしっかりと残さず全部食べて食器をママのもとへ持っていった。
それから映画のために選んだという服に着替えるために自室へ。
「渉さん、このチケット取るの大変だったんじゃないですか?」
「コネだよコネ。うちの名前だせば大体なんとかなるもんでさ」
「ありがとうざいます。司、この映画大好きで。公開日が待ち遠しいって」
「でも公開初日はあのオッサンと真ん中が出張で、あんたは昼間母親のところへ行く」
「はい。でも1日くらいは我慢するって言ってくれて」
「いいだろ。手に入ったんだしさ」
「そうですね」
「ママ。ゆず」
「着替えってそれか」
呼ばれて振り返ると司は映画の主人公と同じ茶色のつなぎにピンクのシャツ。
髪の毛もママにまとめてもらって、すっかり映画の登場人物気分。
時間もそろそろいい頃合い、司を連れて渉は玄関へ向かう。
百香里も見送りのためについてきてくれた。
「司。映画館でもそうだし、お家に帰るまでは絶対渉さんから離れないようにね」
「はい」
「楽しんで来てね」
「はいっ」
「渉さん、司のことをよろしくおねがいします」
「何度もいってる場所だし、大丈夫だって。行くぞ司」
「いってきますっ」
楽しそうな2人を見送って、百香里は一人食べ終えた食器を片付けたりしていると
総司と真守が珍しく一緒に帰ってきた。
「ただいまユカリちゃん。なあなあ。また今日みたいに来てくれへん?」
「駄目です」
台所でせわしなく動く百香里に、スーツ姿のまま声を掛ける総司。
真守は着替えるために部屋に戻っていない。
「そんなあっさり言わんといて。寂しい」
「だって総司さんお仕事しないで私にかまおうとするから。駄目です」
「可愛いからつい」
「ビシバシお仕事してるカッコイイ総司さんが見たいのに。私が来ると何時も怒られてますよね」
「う。そ。そうやったね」
「そうなんです。だから。甘えるのは、お家でたっぷり。会社ではしっかりお仕事してください」
「……はい」
総司はちょっとしょんぼりしつつ、百香里に近づいて。確認をしてから軽く抱きしめる。
大好きな人に甘えたいとき、ギュッと抱きついてくるのは娘と一緒。
「流石に総司さんは抱っこできません」
「え?」
「ご飯の準備したいので。続きは後で部屋でしましょうね」
「はい」
「司がちゃんと帰ってきてから、ですよ?」
「わかってますともー」
「だから。早く部屋着に着替えてきてください。ご飯食べたい」
「はいはいー」
おわり