はじめて2


「総司さん…あの…」
「…可愛い。ほんま可愛い」
「……もしかしてこの為に呼びました?」
「呼びました」
「怒っていい?」
「嘘です」

頬から首筋へのキスと抱きしめる力は緩んだけれど、
それでも移動することは許されずに百香里自身も無理して逃げる事もせず
そのまま大人しく膝に座っている。彼の優しくて包み込まれる抱擁は好きだけど。
でも今ここでなくてもいいのに。職場というのは本来真面目な場所だと思う。
立場がバイトでも社員でも、幹部でも、大企業の社長でも変わりはないはず。
百香里は不機嫌そうにちょっとプリプリしている。

「私司とドーナツ作ってたんですよ?総ちゃんの塾もお迎えあるのに。
すっごい緊急事態って言うから来てみたら。行き成りこれじゃ納得しませんからね」
「怒らんといて。今仕上がったもんでどうしても百香里ちゃんに見せたかったんや」
「仕上がった?」
「あれ」

総司が指差す先にはハンガーにかかったスーツ一式。よく見るとスカートがついているから女物。

「そ、総司さんついに女装が趣味に!?」
「すまん百香里ついに開花してしもてん俺やなくてちゃいますやん。なんでここでボケますか」
「つい」
「何べんも言うてるけど俺お笑いの人と違うでな?…ンなことはええねん。あれはユカリちゃんのスーツ!」
「…わあ。見てもいいですか?」
「見たって!ついでに着替えて欲しい。あ。疚しい事はないで?試着や試着」
「はい」

前回の秘書体験で散々な思いをして周囲にも迷惑をかけて懲りた百香里。
もう我儘を言う気はなかったのにやはり自分用の立派なスーツがあると嬉しいのは隠せない。
総司の膝から降りてそそくさとその真新しいスーツのもとへ。手に取って眺める。
実は家族の服を見に行くたびにチラチラとリクルートスーツを眺めては溜息をしていた。
触った質感がセットで5980円のとは全く違う。
もしかしてオーダーメイドだろうか?でもそうなると疑問が。

「ん?なに?そのジトーーーってしてる目」
「総司さん。もしかして私のスリーサイズとか…」

夫が把握する分には別にいいけど、それを仕立て屋さんに言ったとしたら。
出産してからお腹周りがたるんできて危機感を持っている百香里には悲痛。
総司は何でも可愛いとしか言わないから。怪しい。

「まあまあ。まずは試着してみて」
「……ここで?」
「ここで」
「総司さん見てるのに?」
「見てるのに」
「……ぜったい?」
「ユカリちゃんにお任せ」

総司は席についたまま膝をついてニッコリと優しい笑みを浮かべている。
百香里はスーツを手に考える。子どもが2人いるし今でも夫とは夜も仲良し。
今さら裸を見られるのは恥ずかしい事じゃない。
けど、ここで自分だけ生着替えというのが恥ずかしいというか辛いというか。

「…じゃ。じゃあ。…あっち見ててください」
「どっち?」
「パソコン画面。お仕事してください社長」
「はいはい。それやったらメールチェックでもしてましょか」

ご機嫌に返事をするとパソコン画面に視線を向ける。
その隙に百香里はいそいそと服を脱いでスーツに着替えた。
若干テンションが上がったのは内緒。でもたぶんバレている。

「どうですか?それっぽく見える?」
「見える見える。ちょうどええやん。可愛い新人秘書さんやね」
「可愛いって言ってももう30ですけど…」

まるで事前に計ったかのようにきっちりと着こなせるスーツ。
スカート丈も他の秘書さんたちと同じくらい。
こんなことならもっとしっかりメイクしたらよかった。
嬉しそうに総司の前に立ってくるりと回って見せる。

「まだまだ若い。…俺は口にするんも嫌や」

きっちり着こなして本当に見た目は新人秘書でも十分通る。
前回よりもさらに「それっぽく」なっていると思う。彼女も慣れてきているのか。
新品のスーツにテンションを上げて喜ぶ百香里はまるで就職が決まったばかりの娘みたい。
彼女の喜ぶ姿は同じように嬉しいとは思うけれど、
どこか冷静にそれを見ている自分はそんな娘を見守る保護者のようなものだろうか?

「……総司さん?」
「ん?」
「なんだか元気がないから。どうしました?」

自分でプレゼントしておいて憂鬱になっているという酷い有様だが
百香里が喜ぶならそれでいい。そう、思っていたのに。
彼女が夫の元気がないのを察してすぐそばまで寄ってくる。

「ユカリちゃんは可愛いなあって。思っただけやよ」
「じゃあ総司さんは素敵」
「…ありがと」
「そんな元気ない顔で言わないでください。…総司さんは本当に素敵だから」
「……」
「あ。違うか」
「ん?」

百香里は嘘くさい咳払いをして。

「社長はとっても素敵ですよ」
「…そう?…なん?あ…ありがとう…」
「ふふ。顔赤い。…という私も今凄い顔が熱いです」
「うん。赤い」

お互いに恥ずかしくなって顔を赤らめて、まるで若いカップルのようだ。
百香里はまだまだ心も体も若いけど。何も自分までそんな若僧みたいな事しなくても。
でも、相変わらず眩しいくらい元気で溌剌として愛らしい百香里を見ているとつられる。

「女の人のスーツはこういうベストは着ないんですか?」
「せやねえ。あんまり女の子のは知らんけど、男もんしか見たことないな」
「…かっこいいのにな」
「俺ユカリちゃんは可愛いのがええな。このスカートとかもほら。手入れられるし」
「平然とセクハラしないでください。…そういうのは帰ってから」

といいつつも総司に優しく手を引かれるとすんなりと彼の膝に戻ってしまう。

「なあ。たまにはこれ着てここで一緒にお仕事せえへん?」
「主にどういうお仕事ですか?私難しい文章みるだけで眠れるので無理です」
「それやったら俺がサボろうとしたら怒って」
「それなら司の方がいいでしょうね」
「司は可愛い顔してめっさえげつない攻撃してくるからあかん」
「この前は股間を殴られてましたもんね総司さん」
「犯人は渉や。今からやっとけって痴漢対策とかで教えとんねん。…それもおかしいけども」

久々に抱っこしてやろうと後ろから近づいて頭を撫でただけなのに。
何で父親に痴漢対策をするのか。怖くて聞けないけど。

「じゃあ私もえげつない攻撃しちゃおう」
「ユカリちゃんに殴られたら俺の息子が再起不能どころかほんまに女になって」
「えっちなし」
「……」
「総司さんは社長さんです。社長さんは皆の為に頑張る人です。偉い人です。
だから最後まできちんとお仕事をしましょうね。しない人はだめです。
ご褒美はあげません。…そうでしょう?ね?社長」
「……せや、ね」

思い出して身震いしている総司の頬をつかんで自分の方へ視線を向けさせる百香里。
にっこりと笑って強烈な釘差し。総司はひたすら頷くばかり。
どんな秘書よりもどんな説教よりも効果てきめんだろう。

「お茶淹れてきますね」
「お願いします」

軽く頬にキスだけして百香里は立ち上がり社長室を出ていった。
今回用意した靴は前回ほどヒールが高くないから歩行はなんとか出来る。

「社長?どうかしました?」
「あ。うん。あんさ。ユカリちゃんにここのフロア軽く案内したってほしいんやけど」
「え?宜しいんですか?」

百香里が居ない間に社長秘書を呼ぶ。
彼女は千陽の後任で真面目ではあるが彼女ほど突っ込みが厳しくはない。
総司が百香里を呼びたいと言っても特に反対もせずフォローしてくれている。

「これ以上一緒に居ったら爆発しそうなんよね」
「……。…では、奥様にはこちらのお仕事を手伝っていただきます」
「頼むわ」

思いっきり冷めた支線を向けられるが総司は気づいていない。
入れ違いに百香里がお茶を持って入って来て、
秘書の仕事もしてごらんとうまい具合に総司に言われて出ていく。
せっかく手に入れたスーツ。社長室の中だけで居るよりもいいだろう。
その間に総司も心と体を落ち着かせる。


「あん」
「ンな簡単に落ち着けたら苦労せんちゅうねん!」
「…誰に怒ってるんですか?」
「何でもないよ」

時間が過ぎるごとにむしろ余計にイライラむらむらしてきて。
1時間ほどして戻ってきた百香里を呼び寄せ膝に戻し抱きしめる。
そして首筋に顔をうめて舌を這わせる。

「ん…ぁ…総司さん…ここで?」
「ちょっとだけ。ちょっとだけでええんで社長にご褒美ください!」
「え?…まって…あん…ちょ…」

手がスカートの中へ入りごそごそと悪戯に動いて。
驚いた百香里が体をもぞもぞさせるがそれをやや強めの力で抱きしめ封じる。

「…可愛い」
「総司さ……ん」
「ユカリちゃん…」
「…だから。…だから!あなた!」
「は、はいっ」

が、百香里の野太い一声でぱっと手が離れる。

「そんなに秘書がお好きなの?」
「え?」
「そんなに喜んじゃうほどお好きなの?」

百香里はくるりと向きを変えて総司を見つめ、いや、睨む。
首でも絞められそうなくらいの勢いと言うか既にネクタイ引っ張られてます。

「あの、あの、ユカリさん?…俺、そんな事ひとことも」
「さっき見てきましたよ。やっぱり写真なんかよりも実物の方が可愛いですものね。
総司さんたら鼻の下伸ばしちゃって…あんな可愛い子いっぱい採用して…社長ですものね…」
「な、なに?何で?何で俺こんななって」

さっきまであんな喜んで嬉しそうにして初々しい様子だったのに。
何でこんな鬼みたいな顔になって怒っているんだろう。
自分は何もしてない。はずなのに。
彼女の中で秘書への憧れが秘書への殺意になっているような?

「……なんだかんだ言って総司さん可愛い子とか美人とか弱いですもんね」
「ユカリちゃん堪忍してや。俺はユカリちゃんしか見てへんて。な?な?その。
これはその。秘書が好きやからやなくて。その、ユカリちゃんの喜ぶ顔がみたいのと。
傍に居って欲しいだけであって…な?俺の性癖は分かってるくせに」
「……」
「それにコスプレやったら和服とかのが好きやなあ……なんて。なんて」

まさかこの歳になってもこんなハラハラドキドキすることになるとは。
嫌な汗をかく総司。百香里はまだジトーっとした視線を辞めないけれど。
でもネクタイはもとに戻してくれた。

「和服?」
「そう。和服」
「……」
「今度また着てほしいなあ」
「……。はっ!……まさか、…銀座のマダム!」
「ええ!?な、なんでそうなんの!?俺そんな趣味ないて!お願いユカリさん!奥さま!」
「冗談です」
「…こ、こわい。こわいよ。寿命縮めんといて…?」

軽く涙目になっている総司だが百香里はニコっと微笑みキスをしてくれた。
百香里の中に隠されている「押してはいけないスイッチ」がどこにあるか
結婚して長いはずなのに総司にはまだ見つけられない。

「…ん…じゃあ…口で…んぅ……ふ」
「…いや。あの。……お願いします」

さっきは咄嗟に言ってしまったけど、秘書も悪くないなと思っていたりする。
もちろん相手が百香里であることが条件だけど。
でも下手に手を出すとまたよからぬことを勘ぐられて怒られそうで怖い。



「あれ。ユカりん帰ったんだ」
「司とドーナツ作ってる途中やったでな」
「そう。…で。なに?また。用事ならさっさと1回で終わらせろよ痴呆か?おっさん」

百香里がスーツのまま帰りたいと言って私服を総司に任せ帰ってから。
時間を置いて社長室に入ってきたのは相変わらずふてぶてしい態度の渉。
ソファに座るなり勝手にタバコを吸い始める。

「なあ。お前もそろそろヒラは卒業せえへんか?」
「……またその話かよ」

総司もそのそばに座るが相手は視線を合わせようともしない。

「社長は坊に譲って欲しいんやけど。それ以外やったら」
「興味ない。つうか。総吾が社長になったら辞めるから。何であいつの部下になんだよ」
「せやでお前もそれなりの役職で」
「やだ」
「渉」
「……俺よか自分の家族と宜しくしてりゃいいだろ。鬱陶しい」
「俺ももうええ歳やでいつ何があるかもわからん。やで、大げさやけど悔いがないように」
「ばっ馬鹿じゃねえの!まだそんな爺じゃねえだろ!あの野郎だってすげえしぶとく生きてたし!
勝手に気弱になってんじゃねえよ!いいか司泣かしたら殺すからな!本気で殺すからな!」
「死んだら殺せへんで?」
「よし今死ね」
「まったまった!言うてることおかしいで自分!」

弟が本気で首を絞めに来るから慌てて降参のポーズをとる総司。
渉はまだ苛々しているのか煙草の火を無理に決してまた視線を反らした。

「…とにかく。俺のことはほっとけ」
「渉」
「その。なんだ。……気、使わして……ごめん」
「……」
「……って!司なら言うと思うけど俺は言わない」
「そ、そうか」
「もういいだろじゃあな」

さっさと部屋を出ていく渉。

「で?」
「いやあ。あんなんはじめてやないかなあ。弟ちゅうのは…可愛いもんやなあ」
「……」
「真守。そう思わんか?」
「そうですね」
「やろ?」
「忙しいのにくだらない話をしに来る暇な兄よりはよほど可愛いと思いますよ」
「可愛いったらユカリちゃんのスーツ姿。写真とったんやけど見る?」
「結構です」
「はあ。俺、こんな幸せでええんやろか」
「……宜しければ地獄へ落として差し上げましょうか。残業という素敵な地獄ですよ」
「…か、かんにん。あ。いや。お前も十分可愛い弟で」
「虫唾が走るので、黙ってください」
「はい」


おわり

2014/09/28