はじめて


「これが今年入社予定の秘書課の子たちです」
「わあ…みなさん凄い学歴」
「この子たちの中から将来社長秘書を選ぶ事になりますからね。
となると密に社長と行動する訳ですし。他社の重役にも見られますから。
容姿はもちろん教養や趣味に至るまですべてにおいて高水準の子を採用しています」
「……」
「それって遠まわしに私はハイスペックですって自慢してない?
高水準なんていっても、どうせ頭の中じゃ上玉見つけてさっさと結婚したいんでしょう?
ていうか、秘書ってそんなイメージしかないわ。悪いけど」
「悪いと思うなら口を挟まないでくださるかしら?」
「あーら失礼」

机の上に置かれた簡単な資料。そこには略歴と写真がついていた。
皆いい大学を出ていい趣味してタイプの違う美しい子たちばかり。
自分もまだ若い気でいるけれど、やはり20代前半には負けるまぶしさ。
軽く落ち込む百香里を他所に傍でピリピリとした空気が流れていた。


「ただいまー……て、そうか。今日は子どもらおらんのやったな」

ついでにリビングに来たのに奥さんのお迎えもない。
何時もなら子どもたちがママのお手伝いをしていて騒がしいのに。
どうしたんだろう。準備に忙しくて気づいてないとか?
総司は着替えようかとも思ったがなんとなく気になってスーツのまま台所へ。

「あ。お帰りなさい」
「何してるん?」
「え。と。はい。…試着してます」
「試着しとるん」
「してるんです」

夕飯の準備は終わっているようだが肝心の本人が居なくて。
何かあったのだろうかと心配になってきた総司が寝室へ入ったら
そこに百香里の姿はあった。何故か見たことないスーツ姿で。

「参観日…やないよな?」
「…借りたんです。千陽さんに」
「何でか聞いてもええ?」

総司は傍にあった椅子に座り着替え中の百香里を見つめている。
何で行き成りスーツなんて着ているんだろう。彼女からは何も聞いてない。
リクルートスーツ姿というのは初めて見る。
参観日などではもっとラフな服装だし息子の塾でももっと違うワンピースだ。

「……怒るから」
「なんで?今までユカリちゃん怒った事ないやん」
「だって。今でももうちょっと怒ってるし」
「怒ってへんよ。ただ、不安になってきただけ」
「不安?」
「ユカリちゃんどっか働こうとしてへん?やないとリクルートスーツなんて要らんやん」
「……は、働こうとかはとくには」
「ほんまに?」
「はい」
「やったら何でなん?」

出来るだけ追い詰めないように優しく言っているつもりだが
百香里は困ったような顔をしているから
たぶん自分が思うほど余裕がなくてきつい言い方をしているのだろう。
だとしても今は彼女からその格好の意味を聞きたい。安心したい。

「……」
「ユカリちゃん」
「……いいじゃないですか。別に」
「……」

口をとがらせて拗ねたような口調で百香里は言う。

「ち、…ちょっと…その、…秘書気分に…浸ってみたいなーって」
「秘書気分?」
「私はほら。今まで体を使う仕事ばっかりで事務とかオフィス系ってなくって。
千陽さんとか里香さんみたいなキャリアウーマンに…憧れてて」
「それでそんな恰好したん?」
「そんな虐めないでください。…似合ってないのは分かってるから。だから。
ちょっとくらい…その。何で今日に限ってこんな早いの…?」

見られたのがよほど恥ずかしいのか何時になくテンパってあたふたする百香里。
夫相手にやや乱暴な口調になっているのにも気づいていない。
総司はそんな彼女を静かに見つめている。怒る訳でも茶化す訳でもなく。

「それやったらうちで働いてみる?」
「…簡単に言いますけど、私、ほんと何も出来ないです。パソコン出来ないし頭も悪いし。
総司さんの迷惑になるの分かり切ってるから。だから。気分だけでもって」
「やったら気分だけでも秘書になってみたらええんやない?明日一緒に出勤しよ」
「だ。だめ。絶対ダメ!絶対何かやらかすんです。総司さんの邪魔を」
「大丈夫やって。俺もたいがい何かしらやらかしてるから。一緒一緒」
「社長と私じゃ全然立場が」
「ほな秘書課に連絡入れとくで明日は頑張って秘書してな」
「そ、そんな。困ります子どもたちの事もあるし」
「ママのお願いやったら聞いてくれるて。さあ。ご飯食べさして。腹減って死にそうや」
「あ。はい。待っててくださいね」
「うん」
「……だから。総司さんはあっちの椅子に座っててください」
「見てたら駄目?」
「だめ」

百香里に追い出されて1人リビングの食卓につく。子どもが居ないと静か。
特に司が居ないと。夫婦2人きりも悪くない。ただ、今はそれに浸るような気分ではない。
リクルート姿の百香里を見て可愛いとか興奮するとかでなく、
彼女が外へ出ていってしまう不安に駆られた。総司は深いため息をする。
いい歳をしてなんて子どもなんだろうと。
いや。いい歳だからこそ、若い妻が外へ行ってしまうのが怖いのだ。

「今日は2人きりだからワインも用意したんですよ」
「自分で選んだん?」

そうしているうちに百香里が何時もの服に着替えて戻ってくる。
料理をテーブルに並べてワイングラスも置いて。総司はさりげなくワインの銘柄を見る。
高級、までは行かないがそこそこ名の知れたワインだ。正直百香里が選んだとは思えない。

「いえ。今日は里香さんと千陽さんと一緒だったので。お2人に」
「……喧嘩、せへんかった?」
「さあ。私違う事考えてたからあんまり」
「まあ……それのがええかな」

実は今朝から百香里の様子がおかしくて気になっていた。そわそわして時計を気にして。
浮気、なんてする子じゃないと思いながら。でも誰かと会んだろうなとは思っていた。
敢えてこちらから聞かなかったのは返事が怖かったのもある。我ながら意気地がない。


「あわわわわ…」
「ちょ、ちょっと!ユカリちゃん!何処行くん!こっちこっち!」
「ち、ちがいます!足が勝手に!わわわっ」

翌朝。緊張する百香里を連れてマンションを出る。
彼女の密かな楽しみになるはずだったコスプレは服だけでなく靴もカバンもセットだったのは驚き。
もしかしたら千陽にはこうなるとわかっていたのかもしれない。
とにかく高いヒールの靴なんてはいたことのない百香里にはまっすぐ歩くことすら困難。

「ほれ。危ないで慣れるまでは俺に掴っとき」

総司は慌てて百香里のもとへ。すかさず手を差し伸べた。

「…嫌です」
「何で?」
「ひ、秘書は社長にそんなべったりくっつかないですから」
「お。やる気やね。…ほな。頑張ってな秘書さん」
「はい。…っとととと」

百香里を気にしつつ車に乗る。最初はバスで行くとか自転車で行くとか
無茶な事を言っていたが何とか説き伏せて一緒に会社へ向かう。
そわそわしている百香里はまるでこれから面接にでも行く学生のよう。
それを苦笑しながら見守る自分は保護者か。ああ、笑えない。

「なあ。ユカリちゃん。そんな怖い顔して会社行くんはええないよ?ほら。笑顔で」
「…え。えがお。えがお?」
「そう。笑顔。いっつも見せてくれる可愛いのでなくてええんやけど、笑顔は大事」

会社に近づくたびに百香里の表情は硬くなっていって。
あまりにも酷いので総司は傷つけないようにやんわりと声をかける。
無事に会社の駐車場まで到着。
車を止めて歩き出すがまだ少しフラフラする百香里を気にしながら社内へ。
入るなり待っていた秘書や忙しそうな社員たちが次々に社長に笑顔で明るい挨拶をしていく。

「……そっか。こういう笑顔か」

綺麗なスーツを着て忙しそうに動いてかっこいい。自分が密かに憧れた世界だ。
百香里にはみんな輝いて見える。そして、怖がるばかりで結局何も出来ない自分に落ち込む。
格好はそれらしくできてもやはり中身が伴わないと。
総司はそれらに対し笑顔で気さくに応えている。

「本日の社長のスケジュールです。どうぞ」
「えっ!?…え。えっと。はい。どうも」

このまま社長室まで行くのかなー?なんてぼんやり考えていたら唐突に呼び止められて
真新しい手帳を渡された。あまり覚えがないけれど、たぶんさっきの女性は千陽の後任の社長秘書。
何だろうかとぺらっとめくるとぎっしり何か書いている。これがスケジュール?

「ユカリちゃん上いくではよおいで」
「あ。はい!」

もつれそうになる足をこらえ一緒にエレベーターで最上階へあがっていく。
外の景色を眺めている余裕はない。問題はこれからだから。
気分だけでも秘書を味わうつもりだったけれど、これからどうしたらいいのか。
本物の秘書さんから手帳を預かったのだからやはりスケジュールの確認?
それとも他に何かするのか?それを社長に聞いてもいいのだろうか。

「あれは…兄さんの趣味ですか?」
「可愛いやろ?新人さんみたいで」

社長室のある廊下を歩いていたら向こうから歩いてくる専務。
彼にも話はしてあるがあまり良い顔はしてない。彼は真面目だから、何の経験もない百香里が
行き成り秘書の真似事なんて許せないのだろう。不愉快何だろう。

「…いい趣味とは思えない」
「ユカリちゃんもたまにはこういう世界に入ってみるんもええやろ」

百香里は2人の会話には入らずおぼつかない足取りでその辺をうろうろと歩いている。

「そういうものですか?…まあ、本人がそれでいいのなら。僕は何も。
ただ、義姉さんに気を取られて仕事をおろそかにするのだけはやめてくださいね」
「分かってる。子どもらはどや?」
「司も総吾も元気ですよ。千陽さんを助けるんだって張り切ってました。主に司が」
「ははは。可愛いな。…今日はめっさ疲れてると思うから夕方くらいまで預かっててくれると嬉しい」
「子どもたちは安心してください。ああ、ほら。兄さん。義姉さんが心細いみたいですよ」
「ほな頼むわ」

何かやろうとして、でも分からず。結局不安になって総司をちらちら見ている秘書さん。
専務はそのまま自分の部屋に戻り社長はそんな秘書に声をかけ自分の部屋に入れる。
鍵を開けて中に入るとカバンを適当な所に置いて着席。

「もう。そんな所に置いて!ちゃんと片付けないと駄目じゃないですか」
「あ。堪忍」
「……今のは無しです。ナシ。ナシね?」
「はいはい。なしなし」

つい何時もの口調になってしまった百香里は恥ずかしそうにしながらも
カバンを整理して社長の傍へ。社長は少し笑っているようだった。

「あ。あの。あの…す…スケジュールって…どうしたらいいんですか?」
「今から俺が何をせんならんのかざざーっとでええで言うてって」
「…は、はい。…えっと。えっと」
「ここには俺しかおらんのやからそんな改まった言い方せんでもええよ」

そう言って総司は頬膝をついて百香里の秘書っぷりを眺めている。
慣れない格好に分からない秘書の世界。彼女なりに一生懸命なのだろうが
総司にはそのどれもが可愛くて。愛しくて。抱きしめたくなるのを我慢している。
せっかくここまで来たのだから奥さんが満足するまでは秘書をさせてあげよう。

「いっ…以上今日の…予定…です…」
「はい。どうも。ほなまずはお茶でももらいましょか」
「お茶。は、はい!淹れてきます!」
「場所は」
「大丈夫です。司のミルクとか作らせてもらったことがあるから」
「気つけてな。自分も何か持って来てええから」

特に喉が渇いている訳ではないが百香里には簡単な事だけお願いする。
これなら出来ますと嬉しそうに彼女は部屋を出ていった。
その間に朝にやるべきことをさっさと済ませていく。

「お茶っていってもたくさん種類があるんだな。…社長だし、やっぱりこの一番高そうなやつかな」
「やっぱユカりんだった」
「あ。渉さん。おはようございます」
「おはよ。で?なに?どういうプレイ?」
「ぷれい?」

少し高い所に置いてある箱を取ろうと手を伸ばしたら後ろに居た渉が取ってくれた。

「スーツ姿なんて初めて見たけど。あのオジサンとうとうそういう趣味になったの?」
「…えっと。私のわがままで秘書の真似事をさせてもらっているだけなんです」
「秘書ねえ」
「似合わないですよね…」
「お遊びくらいならいいんじゃないの」
「そ、そうですか?」
「司は?」
「真守さんのお家に。総ちゃんと一緒に行ってます」
「…なんだ。家に来たらよかったのに」

不満そうにしながらもさりげなく百香里の手伝いをして彼は去って行った。
このフロアによく来るのだろうか。やはり将来は重役につく?
ちょっとだけ気になった百香里だが渉は仕事の話をするのが嫌いだから。
此方からは何も言わない。司は堂々と質問しているようだけど。

「うん。ユカリちゃんの淹れてくれた茶や」
「これくらいしか出来ないから」
「よっしゃ。ほな。こっちおいで」
「え?」

お茶を出して一安心。と思ったら総司が自分の膝をポンポンたたく。
もしかして座れという事?百香里はどうしようか迷ったけれど、
結局は社長の膝に座る。そして目の前には家族の写真。
と開かれたノートパソコン。

「こうやっていっつもチェックしててな?ほんでここをこう……ユカリちゃん?」
「……」
「寝とるわこの子」

座って画面の説明までわずか数秒。
まるで教科書を開いたら速攻で眠れる小学生並みの速さ。
緊張してあまり眠れなかったようだし疲れているのもあるかも。
にしたって早すぎる。総司は苦笑しながらも百香里を抱きしめる。

「…ん…」

無意識なのだろうが嬉しそうに抱き返す百香里は可愛い。

「このままヤラシイ事したいけど。我慢しとこか」

百香里をソファに寝かせ上着をかけてあげて総司は仕事を続ける。
時折寝返りを打つ彼女を眺めながら。
毎日これだと仕事に手がつかないから困るけれど、たまにはいいだろう。

「やっぱり私は駄目ですね。向いてないんだ。はっきりした」
「行き成りはできへんよ。そんな簡単に出来るもんやったらわざわざ選ぶ意味ないやん」
「…そうですけど。それにしたってもう少しできると思ってたのに」

百香里が目を覚ますともうお昼を過ぎていて。
あわてて起き上がり総司を見るが彼は忙しそうにパソコンに向かっていた。
拗ねた口調になって彼のもとへ向かう。もちろん食事もまだだ。

「昼は何がええ?」
「社食行ってきます!これも楽しみにしてて…えへへ」
「そう。やったら」
「社長は何かあるんでしょう?」
「え?」
「じゃあちょっと行ってきます」
「ま、まって。俺も行く」
「大丈夫ですって。場所は分かりますから。…何頼もうかなぁ」

社長は専用のランチがあると思っている百香里。
もう気分は社食なのでさっさと部屋を出ていってしまった。
置いて行かれてぽかんとしている総司。

「なんでやねん…」

突っ込みを入れてみるが返してくれる人は居ない。

「どう?社長秘書体験は楽しかった?」
「はい。社食美味しかったです」

数日後。同じお店で同じメンバーでの集まり。
百香里はクリーニングに出して戻ってきたスーツ一式を千陽に返す。

「そこ?…まあ、貴方らしいけど」
「やっぱり難しいです。私には今の生活があってるのかな…なんて」
「そうね。社長秘書より社長夫人のがいいんじゃない?ねえ?イモウトサン?」
「……。無理はしなくてもいいけど、夫が普段どういう仕事をしているか見れるのは良いわよね」
「はい」

ご飯を食べてから百香里は特に何も出来ず総司の傍に居ただけだった。
たまに雑用を頼まれて書類を届けてみたりサボろうとする社長を怒ったり。
本当に見学に行っただけ。邪魔だっただろうなと思う。けど皆笑顔だった。
その辺やっぱり人の扱いに慣れてるんだろうなと感心する。

「あーあ。私もいっそそっちに転職しようかなあ」
「……」
「何か今すっごい馬鹿にした視線向けなかった?」
「言いがかりも甚だしいわね」
「……もう。何よムカつく」

またしてもピリピリする空気。でも百香里は違う事を考えて会話には交じらない。
視線の先にはスーツ。真似事でもお遊びでも体験できてよかった。


「お帰りユカリちゃん」
「総司さん」

家に帰りリビングに入ると何故かエプロン姿の総司がお出迎え。
今日は休日だから彼が居るのは分かるけど、なんでエプロン?

「ママお帰りなさい!パパがご飯作ってくれるって!」
「そうなの?」

飛び出してきた司が百香里に抱き付いて興奮気味に言う。

「大したもんはできへんけど。お父ちゃんもやればそこそこ出来るっちゅうとこを見せたるわ」
「おーすごーい」
「司。パパの邪魔しちゃいけないよ。僕の宿題手伝って」
「えっ…そ、…総ちゃんの…宿題…っ…う、うん。わかった」

総吾に引っ張られ司は部屋へ移動。百香里は荷物を椅子に置いて台所に戻った総司のもとへ。
1人で生活していた期間が長いせいか総司は慣れた手つきで材料を切る。段取りも手際も悪くない。
もともと器用な人だから何でも一通りはこなせるのだろう。
ただ百香里を気遣い最低限しかしないようにしているのだと結婚して10年してやっと分かってきた。
彼はやっぱり松前家の長男で他の優秀な弟たちよりも秀でている。けど。優しいから出さないだけ。

「総司さん」
「ん?待ってな。すぐできるで」
「私もう1人くらい頑張りたいな」
「ふう。出来た。……えぇ?!」
「だめ?」
「…だ。…だめやないけど。…ないけど。何でまた急に」
「だって総司さんだって3兄弟だし私も3兄弟がいいなあって」
「そ、そうなん。何やユカリちゃんからお誘いとか恥ずかしいな」
「私だってそれくらい言えますもの。今夜から頑張って小作りしましょうね」
「……いけず。そんなんここで言わんでも」
「総司さんだってそうだったじゃないですか。楽しみにしてます」
「う、うん…」
「どうしちゃったんですか?もしかして嫌とか?」
「嫌やないよ。が、頑張るわ」
「はい。頑張りましょう!」
「ユカリちゃんにはかなわんなあ…」



おわり

2014/09/23