物欲 2



最近彼女は時間があると部屋の情報を見ている。
それまでは旅行のパンフレットを楽しげに眺めていたのに。

「…見ているだけ、だよね?」

風呂あがりのぽかぽか気分で雅臣の部屋へやってきた亜美。
彼は相変わらず机に向かってパソコンとにらみ合いをしていたが
構わず今日も貰ったというお部屋探しの雑誌を広げてソファに座り眺める。

「ねえ雅臣さん。この超高層マンションに移り住まない?」

立地条件も最高で女性が好むようなおしゃれな部屋のページを眺めては
ため息を漏らしていた亜美。理想の部屋なんて家賃も当然高いから
ぎりぎりの彼女では住むことはかなわない。分かっている。だから見てるだけ。

「えぇ?……私はあまり集合住宅は好きじゃないよ」
「こーーーーんな広いんですよ?わかんないって」

あまりに熱心に見ているから心配になったのか雅臣は手を止めて亜美の隣に座る。
彼女はいつの間にか金持ち専用の高超高層マンションのチラシを眺めていた。
確かに部屋は多いし他に他人の気配はしないと思うけれど。

「書庫がないよ」
「あ。もういっそ全部図書館に寄付しちゃお?」

あるいは売ってしまおう。
1冊は微々たるものでもあれだけ量があれば大金になる。

「嫌だよ。…前も言ったけどあれを手放す気はない」
「じゃあやっぱダメか」
「この部屋の何処に惹かれたの?ここと何が違うの?」

部屋数はコチラのほうが多いし庭だってある。見た目や設備も最新式とは言わないけれど、
レトロで品があって雅臣は気に入っている。自分ではそれらの手入れをしないけれど。
簡単な掃除も亜美に任せっきりだけど。

「ガラス張りのリビングから見えるこの夜景!夜の街やビルの明かりがこうこうと…」
「そのガラスの掃除は君がするんだよ?大変だろうに」
「お風呂から見える景色もさいこーらしくって。お風呂入りながら景色を眺めてシャンパン」
「いいかい亜美。最初の数ヶ月は楽しいだろうけど慣れてしまえば感動を失う。
結局は空だの夜景だのよりも見慣れて地に足の着いた場所が恋しくなるんだ」
「人の夢潰して楽しい?ほんっと意地悪なんだから。いいよもう1人で浸るから」

不機嫌な顔をして雅臣の手からチラシを奪うと部屋を出て行こうとする。

「ごめん。…君が住みたいならそこへ移ろう。本も寄付するよ。だから」

雅臣も立ち上がりその手を掴んだ。根は素直なはずなのに、喧嘩をしたりすると
どうしても素直じゃないヒネクレ部分が邪魔をするらしく。
亜美は一度怒ったり拗ねたりするとまたもとに戻るのに大変な時間がかかる。
何で怒ったかは忘れたけれど、実家に帰って2ヶ月も帰ってこなかった時があった。

「……」
「なんなら君が自由に出来る部屋として用意してもいい」

とにかくこじらせる前に機嫌を取ろう。

「いいです。雅臣さん居ないと意味無いから」
「亜美」
「夢みたいなマンションばっか見ててテンション上がっちゃったみたいですね。
邪魔してごめんなさい、寝ます。おやすみなさい」

もっと激怒するかと思ったのに落ち着いていて、でもそれが逆に不安。
だけど亜美は少しだけ笑って手をほどき部屋を出て行った。
追いかけてもきっと同じことを言われるだけだ。なら、おとなしくしていよう。
嘘はつかないだろうから朝目が覚めたら彼女が居ないなんてことはないだろう。



「殿山君。女性って夢が好きだよね」
「…はあ。そうですね。やたら夢見てますよね。あ、教授もしかして彼女と喧嘩ですか」

翌朝、何処と無くぎこちないままに家を出て大学の自分の研究室に入る。
助手は先に来ていてそれを見るなりいつもの様にコーヒーを持ってきた。
ぬるくなると美味しく無いと何時もすぐ口をつけるのに、今日は触れもしない。

「私はどうも夢を壊してしまうらしい」
「ははは。わかりますわかります」
「君は女性の気持ちに詳しそうだね?」
「そりゃ。教授よかは」
「そう。君を羨ましいと思うことは無いけれど。こういう場合は無性に思うよ」
「…そりゃどうも」

この上司が無自覚で失礼なのはいつものことだけど、
今日は本当に心ここにあらず。
よほど派手な喧嘩をしたのだろうと助手はかすかにほくそ笑む。

「……電話しようかな。…彼女の好きな肉でも食べさせて」

美味しいワインをがぶがぶ飲ませて。酔わせて。何処にも行けなくする。
我ながら酷い作戦ではあるけれど、下手に話を持ちだしてグダグダするよりはいいだろう。
彼女のタイムスケジュールは把握している。時計を見て確認して携帯を取り出した。

「今日は私が作ります」
「そう」
「ハヤシライスを」
「へえ。それは新しい」

待ち合わせした時間通りに場所へ向かうとすでに亜美の姿。
それに安心しつつもお得意の肉と酒で釣ろうとしたけれどそれを断られ
スーパーに連れて行ってとせがまれた。肉と野菜、あとお菓子とお酒を購入。

「時間もあるしきちんと家政婦らしいことしないと」
「洗濯も掃除をしてくれているから十分働いてくれているよ」
「そろそろお母さんじゃなくて私の味が恋しいでしょう?」
「え」
「……」
「あ。う。ん。そうだね」

やっと胃薬から介抱されたのにな。でも、ここでまた否定するのはダメだ。
それに今回はただ煮こむだけの簡単な料理。カレーのようなものだ。
そう自分に言い聞かせながらも台所で野菜を切っている亜美の側に居る。

「そうだ。今度またお弁当も作ろうかな」
「無理はしないでいいよ」
「玉子焼きまた焼きますね」
「うん…」

その言葉にはなんの裏があるのだろう。どれだけ考えても分からない。
ずっと付き合っているのに、彼女の思考パターンは分かっているはずなのに。
恋愛になると途端にダメになる自分の脳みそが今更ながら悔やまれる。

「……」
「亜美。…本当に、いいんだ。君の好きな所へ行こう」
「雅臣さんはここで沢山の本に囲まれて金木犀もあって静かな場所で仕事しなきゃ」

彼女は包丁を握り視線は野菜のまま。視線には気づいているはずだけど。
振り返る様子はなく、ただ淡々と言いながら作業を進めていくだけ。
何故こんなにも静かなんだろう。どうしていつもの様に拳が飛んでこない?
これならまだ感情的に怒ってくれたほうが良かったかもしれない。

「……君は側に、居てくれる、んだよ、ね?」
「はい」

何故だろうその言葉にあまり信憑性を感じられないのは。
嘘を言うような子じゃないと分かっているのに。不安でたまらない。
やはり怒っているのだろうか。彼女の夢を潰したことを。

「部屋の見学受付中と書いてあったよ。住むのはいったん置いておいて、
見に行くのはどうだろう?車だって試乗したのだし部屋だって見るだけなら君も」
「雅臣さん」
「なに…?」
「私すっかり甘えてた。車とか部屋とかそんな余裕ないのに。夢見て。
彼氏が金持ちだと。甘やかされちゃうと。…家がどんだけ貧困してても忘れちゃう」
「……」
「まずは借金返済しなきゃね。自分のことはそれからだ」

ただちょっと夢を語っただけなのに雅臣に言われて最初は凄く腹が立った。
彼はねだれば高価なものでも買ってくれるし部屋だって移ってくれるから。
でも、同時にそれが自分の中で当たり前になりつつあると気づいた。
貰って当然。望んで当然。でも、そうじゃない。
私は今までそんな満たされたゆるい気持ちで生きてきたわけじゃないのに。
他の家族だってそうだ。我慢して生きてる。借金を返すまではと。必死に。

「結局。私は君のものにはなれないのかな」

雅臣はそう言うと亜美を後ろからぎゅっと抱きしめる。

「危ないでしょ」
「君は何時も最後は家族の元へ帰っていくんだ。私を置いて」
「……」
「夢を抱いても現実とは違う。努力するにも報われる為には現実を直視しなければならない。
君との生活を夢見た所で現実はそう上手くは行かない。私は何も特別なものは望まないのに」
「…雅臣さん」

亜美は抱きしめられながらも包丁を安全な場所にしまい彼の手をにぎる。

「……どうして現実に手を伸ばさない?私は君に全てを注ぐと決めているのに」

与えられるものは全て与えるのに。何故今更拒否する?

「それは。……それは」
「…私がただのATMにでも見える?」
「そんな訳ないでしょ。……たまにチラっと考えるけど。いやいや!違うから!」
「じゃあ」

どうして?亜美の耳元で囁くように尋ねる。
彼女はくすぐったかったのか身を捩るけれど抱きしめる手は退けない。

「…こ…こんな所で言いたくなかったけど」
「なに」
「最後はやっぱり…と…嫁ぎたいから。借金まみれとか…嫌じゃなですか。
やっぱり綺麗な体じゃないと。いや、あのもう処女とかじゃないけど。そういう意味じゃなくて」
「…そう。…なんだ」
「何でそんなショックな顔してるの?え?もしかしてドン引きした!?」
「……いや、そうじゃないよ」

そうか、でも確かにそういうものに憧れる年齢にはなっている。
抱きしめる力が緩まって亜美は自由になる。
振り返るとかなりショックを受けたようななんとも言えない顔の雅臣。

「嫌なの?」

亜美は何故か目がクワっと見開いている。

「そういうわけでは」
「嫌なのかって聞いてんだオラ」
「…亜美なんだか口調がヤクザに戻って」
「いいから答えろやおっさん」

雅臣の首もとを乱暴に掴み上げる。

「おっさん…」
「嫌なんか?あ?嫌なんか!?」
「……い、…嫌です」
「なんやとコラ!テメエ!こんだけ可愛いギャル捕まえて何が嫌じゃわれ!」
「ぎゃ?だから君は誰なんだ……落ち着いて。包丁から手を離そう。話しあおう」

怒ったほうがマシと思ったけどやっぱり包丁もって睨まれると怖い。
彼女を少しずつ静めて危ないものがたくさんある台所から離れる。
リビングへ入り彼女をソファに座らせた。まだまだ凄い形相で睨んでくる。

「私の何がダメなんだよおっさん」
「いや、君は悪くはないんだよ。ただ私がその、困るだけで」
「だから。何がどう困るちゅうてんねん!はっきり言えや男やろが!」
「君のそのスケバンみたいな口調はどうしたの?」
「ええから!」
「はい。…君がその、私の元から離れるのが嫌です」
「ああ?」
「すいません。だから暴力はやめよう」
「……あ。ああ。そういうことね。わかったわかった」
「…え?」

彼女の側に座ったらこっちに行くと膝に乗られて襟首掴まれ、
片方の手は何時でも顔面を殴り抜けるように高らかに上がって。そんな緊迫した状況下。
雅臣は自分の気持ちを亜美に話す。彼女はずっと睨みつけてイライラしている様子だったが
最後に何かを察したのか一転して表情が明るくなって。締め付ける手を解き放つ。

「ほんと雅臣さんは勘違い糞野郎なんだから」
「勘違い?……糞野郎…」
「危うく殺すところでしたよ?もう。気をつけてね」
「…それはわかってる。……怖かった」

あれだけ殺気立っていたのになんでいきなり優しくなったのだろう。
彼女が抱きついて甘えてきても何時殴り倒されるのかと不安になる。

「実は昨日、愚痴ってやろうと思ってお母さんと電話したんです」
「そうなんだ」
「そしたら逆に怒られちゃって。私がどれくらい雅臣さんに甘やかされるのか分かってないって」
「……」
「一緒に生きてくって決めたなら自分の役割をきちんと自覚しなさいって。
甘えるだけじゃなくて、相手も甘えられるような人間にならないとダメって。
もう子どもじゃないんだからって」
「お義姉さんらしいな」
「でも一緒だと甘えちゃうから。それでね。一人暮らしとかも考えたんだけど」
「……」
「でも私が居ないと雅臣さん何もしないから。心配だから、…やめた」
「…うん。そうか。ありがとう」

雑誌を何度も眺めてそれなりに良さそうな部屋はいくつか見つけた。
ちょっと交通が不便でも足でカバーできる範囲内のお手頃な部屋。
だけど、離れてもきっと心配になって毎日見に来る事になるだろうし、
流れでお泊りもするなら部屋代が勿体無い。

「ズルしないで地道に夢を叶えてきます」
「亜美」
「その方が一緒にいるのに都合がいいもんね」
「…君がいいなら、私もいいよ」
「あ。でも。雅臣さんは私に甘いから貰えるものは何でも貰っとけとも言ってました」
「ははは」
「……ご飯作って。お風呂わかして。お仕事中はコーヒー持ってって」
「終わったら一緒に寝よう」
「うん。よし。頑張って夕飯作るぞ!」
「……亜美」
「はいはい。好きなだけ甘えてください」

散々抱きしめられてキスをしてから亜美はいそいそと台所へ戻り。
鼻歌まじりにゴキゲンで夕飯の準備を進める。
雅臣はそれを後ろからチラっと確認して、リビングへ戻ってくる。
どうやら行き違いはあったものの一緒に暮らすという方向は変わらない。

「夢か。よし。私も夢を語って亜美にアピールしてみるか」

意味のないものと思ってきたけれど。否定しても嫌われるだけ。
彼女に失望されないためにも、彼女の考えに少しでも近づかなければ。
夕飯が出来上がったらさっそく彼女に話をしてみようと考えを巡らせる。

「おいしい?」
「うっ…」
「雅臣さん?」
「っ…ぅ…うぅっ」
「ど、どうしたんですか?入れ歯取れたみたいな顔して」
「……い、いや、久しぶりに君のご飯が食べられて嬉しかったんだ」

亜美の衝撃的なハヤシライスにそんな甘い妄想が飛んでいった。
何でカレーは普通に作れるのにこっちはダメなんだろう。
吐き出しそうになるのを堪え二口目を食べようとすると手が震えた。

「でしょ?雅臣さんにいっぱい食べてもらおうと思って色々工夫したんです」
「……色々、ね。なるほど」

何をしたのかを聞いたら食べるのが嫌になりそうなので黙って手を動かす。

「おかわり山盛りありますからね」
「あの、ほら。亜矢ちゃんとか正志君も呼べばいいんじゃないかな」
「あ。それいい!そうしよう!正志なら多分この時間はまだ部活…」
「連絡してみたら?」
「はい」

亜美は平気で食べているから不思議だ。彼女が席を立ったすきに
こっそりと常備してある胃薬を飲む。あと、正志に合掌。
お掃除やお茶はとっても上手になったのにやはり料理は難しいらしい。


「おじちゃん…」
「ごめん」
「おじちゃん…」
「ごめん」

美味しいご飯があるからと姉に電話で釣られて学校の部活終わりに
直行したら姉の毒々しい明らかに不味いどころじゃ無いハヤシライスが大盛り出てきた。
正志の真っ直ぐで悲痛な叫びと視線。雅臣は視線をそらし謝るしかない。

「ほーら正志!いっぱいくいな!お母さんには電話してあるから」
「亜矢はもうご飯食べてるよな」
「うん。残念だけど。でもしょうがないよね」
「…良かった」
「え?」
「正志君、無理はしちゃいけないよ。辛くなったらやめるんだ」
「え?なに?どういう意味?」
「大丈夫だおじちゃん。…俺が食わなきゃ亜矢にまで行っちまう…それだけはっ」
「…正志君」
「ちょっとさっきから2人だけで何訳わからん話ししてんの?」


おわり